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----豊橋市・鈴木健次さん提供。(これに関する記事は、鈴木健次さんの著作物です)------2004.07.24

第92話 つぎねふ やましろ インターネットはすばらしいシステムである。例えば京都地名研究会の通信誌「都藝泥布」は既に第8号まで発刊されているが、その会のホームページを見れば、ここ愛知県に住む私でもこれを読む事が出来るのだ。地名の起源は私も大いに興味がある。その通信誌の題名の読み、つまりやまと言葉「つぎねふ」は「山城の国」にかかる枕言葉とされており、その文字「都藝泥布」は古事記によったとあるが、同じ言葉が日本書紀上巻(岩波書店・日本古典文学大系)では「菟藝泥赴」と書かれており、万葉集(同資料3314)では「次嶺經」となっている。

枕言葉「つぎねふ」とはどのような意味を持つ言葉なのであろうか。これを採用した京都地名研究会も読者にその探索をすすめているようだ。今回そのページに触発されて私もこの言葉の解明を試みる事にした。地名の探索には現地調査が欠かせないが、とりあえず出来る所まで進めてみよう。


やましろ(山城)

「つぎねふ」この言葉は地名そのものではないが地名「やましろ」にかかる枕言葉であるからには、おそらくはその場所「山城の国」あるいは「山」と関係があるに違いない。「山城」は万葉集では「山背」とも書かれており、古くは京都盆地を含む旧藩制度下の行政区域、更に遡れば現在の京都府相楽郡山城町あたりの字名であろうか。まず地名「やましろ」について考える事にしたい。

調べてみると全国には地名「山城」「山代」が合わせておよそ10ヶ所以上あり、その名称に含まれる区域は狭いものでは「字(あざ)」程度のものもある。つまり地名というものは、最初は「村の中の或る狭い地域」に付けられるのであって、いきなり国の名前になるわけではないのだ。別の例「因幡の国」の「いなば」は現在の「鳥取県岩美郡国府町稲葉ヶ丘一丁目」あたり、つまりは「小さな丘」に付けられた名前が最初であろう。

その後、多くの「字」を統合した地域の総称となるためには権力者の力が必要である。好例は「大和」であるが、地方豪族が自分の領地の総称として採用すれば、かなりの区域となる。例は旧藩政下の国名であるが現在の町村合併も同じだ。「因幡」「山城」もそのような成り行きでその名となったのであろう。

これとは逆の例が「行った事のない広い土地」に付けた名前だ。前にも書いたが「えど」という名前の最初の範囲は「関東平野全体」である。「えぞ」はずばり「未開の区域全体」だ。筆者の住む町「高師」も、元は或る丘からの「見渡す限り」の区域の名前であった。このような場合には、やがてその中の小区域に次々と別の名が付けられて行き、その結果最初の名前の範囲は次第に縮小して行く。もちろん「えど村」に権力者が入植し再び範囲が拡大して行った事はご存じの通りである。

さて「やましろ(山城)」とはどんな場所の事であろうか。国の名前としての範囲は広いが、もしその名が例の如く小さな区域の地形に由来するのであったなら、今でも変化なく見られる可能性は高い。
いま仮に「やま」はそのまま「山」つまり「陸地であるが平地でなく野生動物の住む区域」としよう。「しろ」とは何の事なのか。そこで「しろ」と名の付く言葉のうち、今回の話に都合のよい例だけを集めてみた。

   しろ(城)     敵に攻め込まれないよう、まわりに土手をめぐらした区域
               建物の有無は問わない

   しろ(代)     例は稲の苗代 簡単な境界(土手)を作って、その内側で
               苗を育てる特別な区域    

   しろ(代)     例は薩摩芋の苗代 土もれしないよう藁束で作る育苗用の区域

   しろかき      水田を耕し、まわりに水もれなく土手を作る事 

「しろ」と発音するやまと言葉には「白い」「何々しろ!」「しろうと」などもあり、それぞれ意味もあろうが、上記の「しろ」だけはお互いに何らかの関係があるのではないか。つまり他の言葉はともかく、このグループだけは起源的に共通の意味を持っているのではないかと考えられる。その意味はズバリ「平地から急に立ち上がる傾斜面」である。

1  2  

上の絵1は田んぼに作る「しろ」の断面図であり、この場合には漢字「代」を当てる習慣になっている。絵2も同じく「しろ」であるが文字は「城」だ。絵3が「やましろ」であるが、文字は「山城」あるいは「山代」を使う。ご存じの方も多いはずであるが、このような地形すなわち「平地から急に立ち上がる山」は日本全国にある。

左の地図はその地形を「やましろ」と呼ぶ典型的な場所「岡山県苫田郡鏡野町山城(電子国土による)」である。こんなに狭い地域でもその名の資格はあるという例だ。

このような地形には別に「かも」と名が付く場合がある。その例は「やましろ」よりも多く各地に点在する。話題になっている相楽郡「山城町」の隣にも「加茂町」があり京都市内にも「賀茂」がある。いずれも原因は「川が吐き出した土砂による堆積」であり、土砂は山の裾を埋めて平野を作ったのである。

「かも」と「やましろ」の違いは定かではないが、「かも」には多く湿地帯があり、住居には不向きな場所となっている点などから別の名となったのではないか。

さて肝心の「山城国」の「やましろ」はどこなのか。もしご当地にお住まいでお時間のある方は車で奈良から京都府に入り、北に向かって「山城町」「城陽市」「宇治市」と進み、ここから「山科」に入って最後はJR「やましな」駅までのドライブを試みて頂きたい。この時、東に連なる山の裾が上の絵のようになっている場所が見えたなら、そこが「やましろ」である。

このドライブは筆者がまず実行しなければならないのであるが、以前京都「深泥池」周辺を訪問して以来、機会がない。お許し頂いて、とりあえず話は進める事にしたい。



国土地理院のページ「電子国土」地図は便利だ。上記のコースをなぞって行けば、車どころかヘリコプターで巡航するのと全く変わらない。しかもヘリでは見えないはずの地名までわかる。

そこでゆっくりと空中散歩して行くと左のような風景が目に入る。場所は京都府綴喜郡井手町、左端は木津川、平行する道路は国道24号である。

ここに右下から左上に向かって半島状にせり出している台地が見える。その周囲は急な山裾となり、国道および鉄道の走る平坦地に落ちている。

これが元々の「やましろ」である可能性はきわめて高いが、あとは実際にこの目で確かめるしかないようだ。
ここではお許し頂いて、更に話を進める事にしたい。
なお言うまでもないが左の場所が「井手町」であって「山城町」でないのは古代「やましろ」命名者の責任ではない。



やましろ(山代・山背)

「つぎねふ」は「やましろ」にかかる枕言葉であり、その場合の「やましろ」は近畿「山城の国」に限るのかも知れない。しかし地名そのものは枕言葉とは無関係に定まったのであるから、上記「平地から急に立ち上がる傾斜面」と同様の地形が他にあっても不思議はない。そこで地形図を探すと石川県加賀市に「山代温泉」の名が見つかる。その場所には「大聖寺川」の堆積地が山を埋めて出来た「しろ」地域がきれいに出来上がっているではないか。

「山城」「山代」いずれの場所も背後に山を背負っている。万葉集では「山背」と書いて「やましろ」と読ませているが、これはその地形に従って漢字を選択したのであろう。漢字「背」は一文字では決して「しろ」とは読まないからである。

文字「城」が採用された理由は、その地形が上記のような半島状の台地だった場合には「城郭」としての適地となるからではないか。実際に見張り台などが構築されていたかも知れない。今なら公園になって東屋などが出来るような場所である。

文字「代」を使った理由は不明であるが、想像は出来る。それは農作業「しろかき」が重労働である事に関係するのだ。作業は家族が交代で行うほか、屈強な成人男子に代金を払って依頼する方法もある。今でも奥三河「千枚田」ではボランティアでこの作業が行われているそうだ。

田代・後田

愛知県南設楽郡鳳来町は筆者が少年期を過ごした場所だ。左の地図の広い道路を上に向かって中学へ通うのである。この時、川に沿って左へ曲がると「田代」部落がある。部落の北端・南端はいずれも山が迫っており、田代部落は小さな盆地となっているが、その内部は堆積平地が山裾を埋めて、完全な「しろ」地形となっている。と言うよりも山の立ち上がりは、そのまま田んぼの代として使われていたのだ。地名「田代」は全国に点在し、その数は「やましろ」より多い。

山が半島形に張り出した地形は「やましろ」となるが、このような地形を言い表わすのではないかと考えられる別の地名として「うしろだ(後田)」がある。「うしろ」にも田んぼがあるからだとも言えるが、「迂回」の「う」が「半円形」を表現しているならば、実は「うしろ」という言葉そのものが、この地形の表現「迂回しているしろ」だったのではないか。つまりこちらが先なのではないか。余談ではあるが今後の課題として書いておく。右の図は典型的な「うしろだ」地形である。場所は鹿児島県姶良郡姶良町木津志にある。なぜ「木津」という名前があるのかも不思議だ。

やましろ

ここまで書いて気がついたのは上記「井手町」「山代温泉」の「やましろ」は、「姶良町」の「うしろだ」と同じく、山のまわりを「しろ」が取り囲んでいる事である。一方「鳳来町」の「たしろ」は田んぼのまわりを「しろ」が取り囲んでいる。よって前者は「山しろ」となり、後者は「田しろ」となったに違いあるまい。「うしろだ」は「山しろ」と名が付いてもよかったのであるが、田んぼが半円形に迂回している様子を、山の上から一望出来るので、その印象の方が強かったためであろう。

地名「やましろ」については、まだまだ解明が終わったとは言えないが、このあたりで切り上げて先を急ぐ事にしよう


つぎ

さていよいよこの次は本題の「つぎねふ」という言葉の解明に入るが、まず「つ」という音が日本語の中でどんな場所に使われているか調べてみよう。

  釣る  蔓  鶴  つかむ  つまむ  摘む  積む  塚  つなぐ  継ぐ  連れ  
  津  突く  角  包む  露  つばめ  杖  筒        

これらの言葉は今回の話に都合の良いものばかりを集めたのであるが、共通点は「Uの字形のもの」である。「鶴」は首の形、「塚」「角」「積む」は凸形であり、「つばめ」は尾の形が、「杖」は柄の形がUの字形になっているからだ。「つまむ」「つかむ」は5本の指で凹形のUの字形を作る。

「手をつなぐ」これも同じ形である。「連れて行く」とは「手をつないで行く」意味だ。「妻」とは「手をとりあって」行く二人の事である。ここで冒頭の絵を見て頂きたい。早々と結論を言えば「つぎねふ」とはこのような場面で母親が子供にやさしく話しかける言葉なのである。この場面では「つ!」とひとこと叫ぶだけで「連れ」の命令形になるのである。

次ぎに「つぎ」の説明をするのであるが、もし今、命令で「次!」と呼ばれたらどうするか。次の者は前の者と同じ行動をするはずである。「引き継ぎ」とは前任者と同じ行動をとる事を想定したものだ。「息を継ぐ」とは歌の途中の呼吸の事であるが、歌うという行動の継続を目的とする行為である事は明らかだ。

この言葉を「手をつないだ者」に使う場合は「前者と手をつないで後者も同じ行動をとる」意味になる。下の絵1枚は「つ」を描いたものであるが、この絵姿がそのまま動いて行くと見ればよい。それが「つぎねふ」に使われた言葉「つぎ」の意味である。

   

ここで「ぎ」という音が日本語の中でどのような位置にあるのか探してみた。

  嗅ぎまわる  くぎ(釘)  漕ぎ行く  さぎ(鷺)  しぎ(鴫)  すぎ(杉)  過ぎ行く  
  つぎ(継ぎ・次)  研ぎ師  なぎはらう  なぎ(凪)  にぎやか  にぎる(握る)
  脱ぎ捨てる  はぎ(萩)  はぎ(剥ぎ)  みぎ(右)  むぎ(麦)  もぎとる  
  やぎ(山羊)  マタギ(猟師)  すめらぎ(皇)  せせらぎ  ゆるぎ(揺るぎ)

くれらの言葉には、それぞれ「何かしら今の行動が続く」あるいは「行動・行為を続ける」「行動・行為を続けてほしい」という意味が入っている事にお気づきであろう。もちろん「つぎねふ」という言葉にも入っているはずだ。

さてここまでに出てきた「次」「引き継ぎ」「息継ぎ」「つぎねふ」のうち、どの言葉が一番古いかと言えば、もちろん「つぎねふ」である。「次」「継」という漢字が来る前から「つぎねふ」という言葉はあったからだ。「つぎねふ」という言葉の前半「つぎ」が「次」「継」という意味になった時、その漢字が与えられたのであると解釈するのが順当であろう。「つぎねふ」は最も古いやまと言葉の一つであると考えてよい。

「つ!」と叫ぶだけでも「連れ」の命令形になると書いたが、「つぎ!」と叫んだ場合には「連れて行こう」という命令形になる。現在「次!」と呼ばれたらどうするかと書いたが、それは現代語の意味つまり前者との間に或る程度の「すきま」があっても許される、ゆるい連結を言うのである。「継ぎ」の場合もほとんど同じなのであるが、ここには「手をつなぐ」という行為つまり「途切れなく連結」という感じがまだ残っているように思われる。

冒頭の絵の言葉は実際には「つぎ!ねふ!」と発言されたはずであるが、「つぎ!」と叫んだだけでも親子の会話(命令)は成り立つ。現代語に意訳すれば「手をつないで行きましょ!」となる。

このような会話が行われた場所は「急な坂道」つまり「やましろ」地形に付けられた山道である。もちろん「急な坂道」は日本中どこにでもあるが、この場所の特徴は「平地に張り出した半島」地形である。つまり「うしろ側」の田んぼへ出かける農夫の家族は、必ず近道を通るはずだ。平地をぐるりと回れば歩行は楽であるが距離は遠い。近道は急な坂になるが早く着く。子供の手を引きながら「つぎねふ!」と叫ぶ。

「つぎねふ!」という母親の声は「やましろ」地域でよく聞かれる言葉なのである。「たしろ」地域ではその必要がない。「うしろだ」地区なら坂道と言ってもやさしいものである。その理由は次の「ねふ」という言葉の意味を知ればもう一つ納得出来るはずだ。では次に進む事にしよう。

まくら言葉「つぎねふ」の「ねふ」については、残念ながら他に例が見当たらない。「やま」「しろ」「つぎ」については他の言葉から意味を引き出して来て解明の道具としたが、「ねふ」には当てるべき言葉がないのである。

しかし「ね」「ふ」を切り離して見ると、それぞれ意味のある言葉が見つかる。それは念を押す言葉「わかったかね!」と、突然気がついた時に使う言葉「ふっと気がつく」である。この両者「ね」と「ふ」はいずれも一音語であるが立派なやまと言葉だ。

  ね      はっきり念を押す−−−−−わかったかね!  いいかね!  ねっ!いいでしょ  行っちゃダメよ!ねっ!
          軽く念を押す(他人に)−− ねえ、あれ買って!  ねえ、あれ知らない?   あのね   それはね
          軽く念を押す(自分に)−−−まあね  知らないね!  そうだがね    違うがね                           
          軽い感動−−−−−−−− あれはねえ   いやだねえ   感動したねえ

日常使う日本語「ね」には、このように多くの使い方がある。「念を押す」は「確認する」と言ってもよい。「念を押す」では相手が必要であるが「確認」は自分に対しても行う事が出来る。自分の行為に「ね」を付ける例はある。いわゆる「自分に聞かせる言葉」というヤツだ。これを「決心」と呼んでもよい。
また広辞苑には古文の中の例として次の文を載せている。

         家聞かな告らさね(万葉集巻1)
         巣立ちなば真弓の岡に飛び反り来ね(巻2)
         真土山越ゆらむ今日そ雨な降りそね(巻9)

これらの言葉の意味として広辞苑は「・・・してください」「・・・してほしい」の意味をあらわすとしているが、その意味だけなら「ね」がなくても成り立つはずである。つまり最後の例では「真土山越ゆらむ今日そ雨な降りそ」だけで充分だ。これだけで「雨よ降らないで」の意味となる。「ね」はあくまでも「確認する」意味だと考えてよいのではないか。

ここまで来たところで先の「つぎ」に「ね」を追加してみよう。するとあっさり「手をつないで行こうね」となって、何の不思議もなく確認の意味となる。母親は子供に向かって「つぎね!」と呼びかければよい。念を押す相手は子供半分の自分半分つまり「確認」半分「決心」半分であろう。

最後は「ふ」であるが、日本語「ふっと気がつく」の意味を当てはめれば、解明は容易だ。「ふ」が一音だけの言葉である事は「はっと気がつく」という言葉がある事を見れば明らかである。ここで「はっとする」はあるが「ふっとする」はない事に気づく。「はと足を止める」はないが「ふと足をとめる」はある。

  ふっと・ふと     何かを行っていた時に突然おきる
  はっと         何でもない時に突然おきる 

まとめてみると、「ふ」と「は」にはこの程度の違いがあるように見えてくる。もちろん現代日本語では混乱もあるが、踏み込んではならないという規則が有効な部分もある。「はと足をとめる」「はと気がつく」「ふっとする」がないのもその例だ。

「やましろ」地域を歩いている親子に何が突然おきるのか。もちろんこれは「手をつないで行けば」という前提があり、しかも子供に向かって話す言葉なのであるから、子供にとって良い事でなければならない。それは「峠が見える」「視界がひらける」「目的地が見える」「お家が見える」などの事であろう。母は子供に、もうじき「ふ」がおきるからね、と話しかけたのである。

ここで日本語の中に「ふ」という音が日本語の中でどのような位置にあるのか探してみよう。

  ふいに訪れた  フイになった  ふえ(笛)  ふえる(増える)  ふく(吹く)  フケる(消える)
  ふしぎな  ふな(鮒)  ふむ(踏む)  ふゆ(冬)   ふらりと訪ねて来た  ふる(振る)  ふる(降る)

これらの言葉の中に「突然」「急に」「思いがけず」というような感じが入っている事にお気づきであろう。もちろん「ふ」を含む日本語は他にも多数あるのだが、ここではその意味のある言葉だけを取り出したのである。少なくともこのグループ内では「ふ」の意味がおおよそ同じになっている。

つぎねふ

「やましろ」地域の坂道を行く母と子供、母はやさしく「つぎねふ!」と子供に話しかけ、手を差し出す。現代語に意訳すれば「手をつないで行こうね、もうじきお家が見えるよ」となる。「手をつないで行こう、もうじきお家が見えるからね」でもよい。前者「ね」は「つぎ」にかかるが、後者「ね」は「ふ」にかかるのである。後者を正解とすれば「つぎ!ねふ!」と言った事になる。この方が自然だ。


TUGINEFU

「つぎねふ」という言葉に関し、ここまでの解釈は現代日本語の言葉を探して、その中から意味を掘り起こすという感じで進めて来た。しかしこのページは第1話からずっと「ローマ象形文字31概念表」を当てはめて日本語やまと言葉の起源を探るという方法を採用している。それがこの話の主旨だ。

そこで最後にその方法を使って「山城国」にかかる枕言葉「つぎねふ」を解明してみよう。まず「つぎねふ」を「TUGINEFU」と表記し、それぞれの音に「31概念表」の意味を当ててみる。念のため書いておくが、ここに使われているローマ字は、文字を持たなかったやまと言葉の「音」を母音・子音に分けて表記するためのものである。日本では「音」が概念を担っている。

  T    成立
  U    Uの字形のもの
  G    動きの継続
  I     行動  行為
  N    否定  強調
  E    情報(多くは情報不足)
  F    中断
  U    判断(多くは判断不能)

このようになるが、これでは何の事かよくわからない。そこで日本語音節ごとにまとめると次のようになる。

  つ   TU     Uの字形の成立         手をつなぐ
  ぎ   GI      行動・行為の継続        行く  行き続ける
  ね   NE     情報不足の否定         見る  知る   聞く   教わる      
  ふ   FU     判断不足の中断         突然わかる  ふっとわかる

これを母が子供に話す言葉として直訳すれば「あなた手をつなぐ!」「あなた行く!」「あなた知る!」「あなた突然わかる!」となる。日本語を覚えたばかりの外国人が使う言葉使いの例として、このような会話を本で読んだ方もあろう。なんとか意思は通じる。

もちろん「つぎねふ」はやまと言葉であるから日本人の母と子の間では「つぎねふ!」と言うだけでよい。その意味は前記の通り「「手をつないで行こう、もうじきお家が見えるからね」となる。

これが起源の意味だとすれば、「つ」「ぎ」「ね」「ふ」各音の意味が現代語とは微妙にずれている事がおわかりであろう。それは当然ながら長い年月の間に意味がわずかずつ変化して来たからである。

特に差の大きい「ね」音は、現代では「念を押す」意味になっているが、元は「情報不足の否定」である。つまり相手に向かって言えば「見えたでしょ!」という意味になり、自分で言えば「確かに見えた」という意味になるのである。場面によって「見えた」は「知った」「聞いた」に変わるが基本は「情報不足の否定」だ。差が大きいと言っても、わずかであり解読は容易である。

「つぎねふ」がなぜ「やましろ」にかかる枕言葉となったのか。それは前の方でも書いたように地形による近道の存在が原因ではないか。この言葉が多くの親の口から出たからではないか。「井手町やましろ」が奈良・京都に近い「首都圏」にあったから、人の往来も多かったであろう。

とここまで書いて念のため「井手町ホームページ」を見ると、なんと観光案内図に「山背古道」が描いてあるではないか。ズバリそれは半島根元の峠越え道になっている。途中にはあの小野小町のお墓もあるらしいぞ。考えてみると半島先端は木津川が荒れた時には通行不能になったであろうから、古道が峠越えになるのは自然な成り行きであろう。ここは古来奈良・京都間の旅では「木津川の渡し」と並ぶ最大の難所だったに違いない。

すると「つぎねふ」は母と子の会話ではあっても見えて来るのは「お家」でなく「今夜の宿」「宿のある町並み」だったのかも知れない。この方が切実であるから子供の時の思い出としてはあとあとまで残るであろう。

新しい言葉は人の口に上る機会が多いほど定着しやすいと考えられる。京都・奈良を結ぶ「山背街道」は当時の国道1号線だったはずであるから子供連れの旅人も多かったであろう。その子供は坂道を登るたびに「つぎねふ!」と声をかけられた。峠を越すまでにはもう3回くらいは言われたに違いない。万葉集には「次嶺經」と書いてあるが、なるべく「峠越え」という意味に近い漢字を選ぼうとした苦労が目に見えるようだ。これ以上は望めないだろう。

或る言葉が枕言葉となる理由はその言葉によって異なるが、「つぎねふ」「やましろ」の関係は「いつもその言葉を聞かされた場所」となる。その子供が成人して奈良か京都の役所で働く頃には成立していたはずである。

   「つぎねふ」と聞けば懐かし「やましろ」の杣坂道に母子草咲く

これは万葉歌ではなく筆者愚作であり、しかも現地で詠んだ歌ではない。当時旅の途中でいつもその言葉を聞かされた者に成り切ってしまったと言っておこう。


YAMASILO

地名「やましろ」「たしろ」についても上記と同じ手法を用いて解釈してみよう。ただし「山」「田」はそのままとする。

  S     終焉
  I      行動   行為
  L     指導   指導的な 偶然でない
  O     区域   範囲

  し    SI     行動の終焉   行きどまり
  ろ    LO    偶然でない区域 

つまりその場所は行きどまりになっているのだが、とても偶然とは思えない、何者かのお導きによるとしか思えない、そういう姿になっているのだ。これは「やましろ」「たしろ」の原因が土砂の堆積による山の埋没なのであるから無理もない。では人工であるはずの「田んぼの代」はどうなのかと言えば、それは「偶然でない」「指導による」区域となる。もっと言うならばズバリ「人工の」でもよい。その例には「むろ(室)」「ふろ(風呂)」などがある。

ここで前の方に載せた「しろ」の断面図を見て頂きたい。その形はいずれも「行きどまり」風景になっている。これを「しろ」と呼ぶのだ。


都藝泥布

「つぎねふ」という言葉の意味が上記の通りであるならば、「人を励ます言葉」として他の場面でも使っていたかも知れない。そのような場合には一旦起源の意味に戻り、改めてその時の会話の流れに沿った意味を持たせる必要があるが、その作業は話者の頭脳が無意識に、しかも一瞬のうちに行う。聞く者もその現場に居るのであるから、その状況からただちに意味を察するのである。

  つぎねふ     「手をつなぐ」「行き続ける」「見る・聞く・教わる・知る」「突然わかる」

これが起源の意味であるが、例えば京都地名研究会が会員に呼びかける言葉として使う場合には下記のような意味を持たせればよい。

  都藝泥布     「手を取りあう」「行動を続ける」「見る・聞く・教わる・知る」「突然わかる」
             
ほとんどそのまま研究会の主旨に沿った励ましの言葉となる。私は自分の解釈でありながら、あまりに出来過ぎているので恐ろしくなってしまった。この名前は研究会のどなたかの提案によるとあったが、その方は完璧に「つぎねふ」の意味を察知していた事になる。不思議というほかない。

なおこの言葉は前者の例では母が子に、そして後者は年長者が次世代の若者に、あるいは先輩が後継者たる後輩に呼びかける言葉になっている。ここから「次ぎ」「継ぎ」という意味が出来て行く気配が感じられるであろう。「つぎ」という言葉は2000年の間にこれだけ変化したのである。


京都への旅はいつでも魅力を感じるが仲々その機会がない。以前「賀茂」「先斗町」の現地調査に行ったが、それはもう5年も前の事だ。京都は遠い。「つぎねふ」の意味を考える旅「やましろ」探索ツアーはいつになったら実現するであろうか。上の絵は平均的な「やましろ」地形の空想画である。

京都地名研究会のページに触発されて「つぎねふ」の解明を試みたが、このような機会を与えて頂いた事には心から感謝したい。地名に関しては一地方に限らず、今後とも独自に研究を進めて行きたいと考えているが、とりあえず第92話としてインターネットの片隅にひっそりと載せる事にしよう。


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