「都藝泥布」 第14号 京都地名研究会の通信誌の第14号
  (読み「つぎねふ」は「山城」の枕詞)                    

                Tsuginefu京都地名研究会通信14 平成17101

13回地名フォーラム開催さる

 724日、第13回地名フォーラムを龍谷大学大宮学舎において行った。本会の活動が新聞その他で取り上げられるとともに、市民の地名への関心の高まりを示してか、大勢の参加者があり、当初用意した資料が足りなくなって、あわててコピーに走る一幕があった。今回のフォーラムは二部仕立てとして、第1部は、本会が『京都の地名 検証』を出版したことを記念して、吉田金彦本会代表理事の司会のもと、編集者を中心にしてパネル討論を行った。第2部はテーマを「源平ゆかりの地名」として、山嵜泰正氏の「義経伝説と京の地名」、糸井通浩氏の「平家物語と地名」という二つの発表があった。

単なる観光案内としてでなく『京都の地名 検証』
 本会の会員の執筆による『京都の地名 検証』(勉誠出版)の刊行は、創立から4年目を迎える本会の活動にとっても画期的なことであった。その出版にこぎつけるにいたる苦労話、さらに続編の刊行もすでに準備中であり、今後留意すべき点について、それぞれの立場からの話があった。
出版物

  地図・索引の重要性(明川氏)
  街道筋の意味の再認識を(清水氏)
  フィールド・ワークの徹底を(山嵜氏)
 明川忠夫氏は、今回の書物は80パーセントの成功であるといい、残る20パーセントの問題として、京都在住者以外の読者も想定して、正確な地図を付して位置をはっきりさせること、索引をつけること、また写真も今の時代を切り取るものであり、後には貴重な資料になることから、もっと配慮が必要なことなどを挙げた。清水氏は、自身が東海道、中山道を歩いた経験から街道の重要さに言及し、今回、京都の七口を調べ、また西国街道を実際に歩いてみた感想を話された。街道筋を地名研究の中でどう位置づけるか、清水氏の指摘どおり、大きな検討課題となろう。山嵜氏は「赤池」「六角堂」「八瀬」などご自身が担当された地名について、実際に歩いて伝承を探ることによって新たな発見があったという。フィールドワークの重視が最近ことにいわれるようになっが、特に地名研究にとっては欠かせないものであることを、山嵜氏は指摘した。

  先入見を排せよ(綱本氏)
  さまざまな視点から(忠住氏)
  さらに充実した続編を(吉田氏)
綱本氏は本研究会の事務局長の立場から、われわれの活動が認められて、京都新聞の「地名探訪」の連載となり、それがさらに一冊の書物に結晶した経緯について述べるとともに、歴史的にはなかった「鯖街道」の呼び名や、また逆に歴史的な習俗から来る「畚(ふご)下し」について触れ、地名研究において先入見にとらわれてならないことを力説した。忠住氏は、全体を通読して校閲する役目を担ったが、表記の統一の難しさについて述べ、それは地名のもつさまざまな要素から来るものであり、文献を重視しつつも、他のさまざまな視点が必要であることを延べた。特に現地を歩くことの重要性を強調し、今後の研究に生かしたいと、若手の研究者らしい抱負を述べた。

 司会者の吉田金彦本研究会代表理事は、すでに会員たちは続編の執筆にとりかかっており、このパネル討論の発言を生かして、さらに充実したものを完成させたいとの意欲を示して、討論を締めくくった。

  京都に残る義経の足跡(山嵜氏)
 平治元年(1159)、源義経は生まれるが、その年に平治の乱が起こり、父の義朝は敗走、翌年には死んだ。この乱で流され、配所で死んだ崇徳天皇は祟り、治承元年(1177)の太郎焼亡も、同3年(1179)の次郎焼亡も、さらには幕末の元治元年(1864)のドンド焼けまでもが、その怨霊のなすところと信じられた。雅やかな都城の底に流れる闇の歴史について山嵜氏は語る。義経は生れ落ちるや波乱の生涯をたどるべく運命付けられていたが、誕生地とされる紫竹牛若町、修行をしたという鞍馬山、鬼一法眼との出会いの場所とされ(山嵜泰正氏)る一条戻り橋、弁慶との出会いの場所の五条大橋、あるいは清水寺、あるいは堀川六条館などの故地が今に残っている。「京の歴史の語り部」といっていい山嵜氏は生き生きと現在の京都から源平の京都をよみがえらせた。

『平家物語』当時の京都の姿は?(糸井氏)
 糸井氏は『平家物語』に現われる地名を列挙しつつ、その地名の特色について述べた。洛中の「序数通り名」あるいは現在でも行われる「通り名クロス型」などと洛外の「広域地名型」とでは命名の意識が異なることを、糸井氏は指摘する。しかし、「広域地名型」が徐々に洛中でも行われるようになる。また、西七条は朱雀より西にあるが、西八条は朱雀より東にあって、後者は東の京の西のはずれを意味することになる。それは西の京が早く廃れていたことを示し、そして、三条以北への言及が『平家物語』では希であるのは、太郎焼亡の後で焼け野原で(糸井通浩氏)あったからではないかとの指摘もあった。『平家物語』の地名の現われ方から当時の京都のありさまを再現させることができる。また、「近衛河原」「三条河原」「六条河原」といった場合、それが鴨川の東なのか西なのか、必ずしもはっきりしているわけではないと糸井氏は述べるが、これは今後の研究課題となるであろう。

14回地名フォーラム

「丹波の地名」
 日時:1127日(日)       
 午後
2時〜5

 場所:亀岡市文化資料館
(JR嵯峨野線亀岡駅下車、東南に歩いて
10分程度)


発表@ 安藤信策氏
 「亀岡盆地の式内社と地名」
発表A 若林重栄氏
 「灌漑用水路による小字の命名」
発表B 黒川孝宏氏

 「丹波亀山と明智光秀」















(会場付近地図)

【安藤真策氏発表要旨】
亀岡盆地の各地域に所在する式内社の特色は亀岡の古代史を知るための良い手掛りである。亀岡の式内社と地名、そして遺跡との関わりを検討してみたい。
(安藤氏プロフィール)昭和19年生まれ。前京都府立丹後郷土資料館館長。『新修亀岡市史本文編第1巻』分担執筆。

【若林重栄氏発表要旨】
亀岡市余部町(旧余部村)とその周辺の一部に「……又(また)」と呼ばれる小字があります。現在農地であったり、住宅地に開発された地域であったりしていますが、灌漑用水路の枝先によってつけられた小字名であります。まだ残った農地を耕作する農民はこの水路をたよりに水田耕作を行い、田植え前の休日には総出で水路の清掃を行い、後で一杯飲む習慣が今まで続いています。顧みることさえありませんでしたが、非常に珍しい地名と指摘されましたので報告いたします。同様に、その周辺の地区の小字は「……又」と付かないが、水路によって区分・命名されているところが多い。例外は、集落である地域と、神社・寺院の旧支配地と推定される地域である。

(若林氏プロフィール)南部中学(旧)、亀岡高校を経て、京都大学(国文)卒業。朱雀・山城・嵯峨野・亀岡各高校教諭を経て、大阪青山短期大学(国文科)教授を務めた。論文「土佐日記黒鳥考」など。走田神社宮司を兼任して50年、今日に至る。

【黒川孝宏氏発表要旨】
亀岡という地名は明治2年の版籍奉還の時に亀岡藩と改称されて以来、今日に至ったものであり、それ以前は丹波亀山藩であった。この亀山という地名の由来については従来あまり明確ではなかったが、明智光秀の築城が契機と考えられるので、この間の歴史について検討したい。

(黒川氏プロフィール)昭和30年生まれ。平成8年より亀岡市文化資料館館長。『新修亀岡市史本文編第2巻』分担執筆。

15回地名フォーラム       「相楽の地名」
日時:2006122日(日)     
   午後
2時〜5

場所:山城郷土資料館

発表@斎藤幸雄氏
 「歌枕の里・鹿背山の文化史」発表A河原勝彦氏
 「『相楽』の地名について」

【京都抄】 吉田金彦

◆日本三景展を見てきた。仙台湾の松島、宮津湾の天橋立、広島湾の厳島、これが「三処奇観」とよばれて360年、その絵画が一堂に集められたのは、壮観だった。青い海に松の島山、その波枕に神社と寺院がちりばめられた風景は、まさに日本である。国鉄廃止になった時、天橋立線がJRから外され、ナメられたものだ、と憤慨した記憶がある。

 京都人にとって、天橋立は日本神話の原点である。あそこにも、一つの天孫降臨があった。あの細長い砂州が、天の浮橋のモデルになっている。はっきりと書かれてはいないが、万葉集の柿本人麻呂も、丹後には来ていたらしい。

5年前の6月、神戸で環太平洋地域対象に消滅の危機に瀕した弱小言語の記録と研究の会が開かれた。カナダ、オーストラリアなど、広いフィールドワークに及び、日本はアイヌ語、琉球語が含まれる。少数民族語の消滅は、言語史の断絶をもたらす。われわれは、及ぶ限り、方言や周辺語の発掘と記録保存に努めねばならない。

◆会員の山口均氏が地名研究会あいち創設5年にして、年機関誌『地名あいち』を刊行され、創刊号・第2号・第3号を戴いた。出発をお祝いし、ご発展をお祈り申し上げる。平成134月にスタートした研究会は、会員50名、山口氏を代表として、充実した学会活動を始めた。山口氏の真面目で、熱心な八面六臂の活躍は、遍く天下に知られるところであり、またここに一つ、愛知県地方からの地名情報と研究成果が寄せられる事は、今年「愛 地球博」が開かれたことと並んで、学会の一大慶事であり、地名学界への貢献は大きい。服部真六会長の中部地名文化研究会と共に、末永くご繁栄を。

◆京都市都市計画局の上野明彦推進課長が9月、意見伺いに本部来訪あり、市南部第二京阪道路の愛称名について、「新朱雀大路」「油大路」等、新ネーミングに就いて意見を聞かれた。意見を事前に聴取するのは、よい事だと思い、さらに知人を紹介しておいたが、新名の考案のたやすいようで、簡単ではない。

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