「都藝泥布」 第15号 京都地名研究会の通信誌の第15号
  (読み「つぎねふ」は「山城」の枕詞)                    

      Tsuginefu京都地名研究会通信15 平成1811

14回地名フォーラム報告
 1127日(日)、亀岡市文化資料館で第14回地名フォーラムを行った。京都から満員の山陰線であったが、紅葉見物の観光客の一団がどっと嵯峨駅で下り嵐山の渓谷を越えると、風光が一変した。これまで秋のフォーラムは宮津、福知山で行ってきたが、南丹地域では初めての開催であり、地元から多数の参加者があった。亀岡在住の前府立丹後郷土資料館館長の安藤信策氏、走田神社宮司の若林重栄氏、会場を提供してくださった亀岡市文化資料館館長の黒川孝宏氏らの発表があった。

 神社名から古代史を探る(安藤氏)
 安藤氏は『延喜式』に記載された式内社を中心にして、郷名や古墳遺跡などを総合的に捉えた上で、古代の亀岡の姿を探った。古墳群の存在と神社の位置には相関関係が見られると氏はいう。丹波の国府は千代川から多賀へと移ったらしいが、すると、かつては国分寺と国府とは川を隔てて存在し、東西を結ぶ道があってどこかに渡河点があったらしい。また、

大堰神社の祭神は大堰川を鯉の背に乗って溯って来たために、今でも氏子たちは鯉を食べることはないといった、地元に伝わる興味深い伝承を、 (安藤信策氏)Tsuginefu 京都地名研究会通信15 平成1811
氏は紹介した。

 灌漑用水路の重要性(若林氏)
 高校・大学の教職のかたわら走田神社の宮司でもあり、また長年農業にも携わってこられた若林氏は、農民にとっての灌漑用水の重要性から、それが地名、小字地名にどのように反映しているかを述べた。亀岡の城下町には小字がなく、小字があるのは農村地区であり、それはとりもなおさず、小字が農民の生活と密接な関わりを持っていたことを示している。若林氏自身が宮司をなさっている走田神社の拝殿では、直下で別れる水路の水配りを二つの村の代表が蝋燭を立てて監視した。不正を怒っての猟銃の発砲騒ぎまでかつては起こったことがあるのだという。

この地域に多く見られる「〜又」の地名は灌漑水路の分かれ目を指すこと、またこの地域
での番地は取水の順番であることなどを、氏は指摘した。 (若林重栄氏)

 明智光秀が「亀岡」の命名者!?
 江戸時代を通じて亀岡は亀山といったが、明治2年に、伊勢の亀山との混同を避けるために亀岡に変えたられた。黒田氏によると、亀山というのは「蓬莱山」のことであるが、敏達天皇の時、朝鮮半島から日羅がやって来て、石亀三匹を献上し、その三匹を山城、伊勢、丹波に分けたといい、それがこれら三つの国にある「亀山」の地名の由来なのだという伝承がある。し   (黒田孝宏氏)

かし、あくまで伝承に過ぎず、「亀山」という地名は光秀の時代まで出てこない。光秀の書状には5度も出てくることから、光秀は「亀山(岡)」の都市プランナーであるとともに、命名者でもあったのではないかと、黒田氏は述べた。

(この第14回フォーラムが『京都新聞』にも取り上げられました。参考までにその記事を以下に掲載します。)

地名手がかりに地域の歴史探る  亀岡郷土史家らフォーラム

 地名に込められた意味をひもときながら、地域に伝わる歴史や文化を見つめ直す「京都地名フォーラム」が27日、亀岡市文化資料館(古世町)で開かれ、参加者たちが亀岡盆地に残る地名から、地域の歴史に思いをはせた。

 京都地名研究会(吉田金彦代表理事)と亀岡市文化資料館が開いた。同会のメンバーのほか、地域住民や郷土史家ら33人が参加した。発表者からは、「古代の亀岡盆地の開発に当たった豪族と川東地区に散在する古墳群の関係を考察する際、亀岡市内の神社の名前や地名が手がかりになるのでは」といった指摘があった。

 また、同資料館の黒川孝宏館長が「亀山」という呼称について「明智光秀によってこの名前が用いられ始めた」と言及。会場からは「光秀は『福知山』や『周山』といった呼称を考える際、地域に伝わる伝承を用いたとされる。『亀山』についてもそういう事があったのでは」との感想などが聞かれた。

15回地名フォーラム       「相楽の地名を探る」
 日時:2006122日(日)    午後130500

(開催時間を
30
分早めました。ご注意ください。)

 場所:山城郷土資料館
発表@河原正彦氏「相楽の地名」発表A斎藤幸雄氏「鹿背山の歴史と地名」
【特別報告】
アレクセエワ・アンナ 
 「ロシアの地名と日本の地名」

【河原正彦氏発表要旨】

 山城地方の南西部に「相楽」という地名がある。現在は、関西学術研究都市として都市開発が進む所である。しかし、ここは「相楽」を「さがらか」と読むように、その地名に深い由来を感じさせる。
 かつては田園と森林が多く自然豊かなところで、住人たちは土地を守ることを誇りにしていて、多くの歴史的な地名が残っていた。残念ながら、少しずつ開発が進むにつれ、その地名がなくなり忘れ去られるようになった。その地名の歴史的な由来を紹介したい。調べるほどに、多くの古代人の、また勇敢な男たちの、あるいはロマンあふれる女性たちの、それぞれの思いがこの地名には込められている。
 「さがなか」が現在の相楽郡の語源となり、ここが郡の中心地であったことや、この地域を支配する有力な「相楽氏」が存在しないことが他地域とは違う、特異な存在を示す。そんな地域の地名を紹介し、この地域の歴史的な特色を示したい。

(河原氏プロフィール)
 現在、京田辺市培良(ばいりょう)中学校教諭。山城社会科研究会会員でもある。相楽郡木津町に居住していることから、特に相楽の地名の女人伝説、英雄伝説等にまつわる地名の資料収集に取り組んでいる。

【斎藤幸雄氏発表要旨】
 鹿背山は、木津川流域(南岸)にあって東部は加茂町と接する木津町東北部の大字である。『万葉集』の恭仁京讃歌ならびにその廃都を惜しむ歌として詠まれた鹿背山(田辺福麻呂歌集)は、鎌倉期以後「衣かせ山」として定着し、多くの歌が詠まれている。鹿背山は神山として仰がれ、奈良朝の恭仁京造営計画にも組み込まれる。
 鹿背山には行基伝説・橘氏伝承があり、また道命阿闍梨・和泉式部伝説を伝える。中世の山城鹿背山城や江戸後期以後の鹿背山焼(陶磁器)でも知られ、江戸初期熊沢蕃山も一時寓居するなど、その文化史は多彩である。近年は「絶滅危惧種」に指定されるオオタカの生息する豊かな自然を残す里山としても注目が集まっている。カセヤマ・フルデラ・イヅミ・カユデン・フタギヤマなどの地名とかかわらせながら、鹿背山の歴史をたどってみたい。

(斎藤氏プロフィール)
1961年 京都教育大学卒。元大阪府公立中学校・高等学校教員。現在、枚方文学の会会員(同人誌『法螺』に「宇治川歴史散歩」を連載中)。緑と教育と文化財を守る会副会長。京都地名研究会常任理事。著書に『木津川歴史散歩』『続・木津川歴史散歩』『やましろ歴史探訪』他。

【アレクセエワ・アンナ氏発表要旨】
 ロシアにおける日本地名学の研究の軌跡について、その誕生と発展、そして現状を報告する。ロシアにおける日本地名の研究は19世紀後半に始まった。日本の地名研究はすでに『風土記』に始まっているが、ロシアにおいても知られている日本の地名学者、あるいは基本的な地名研究を概括する。ロシアから見た地名、日本海沿岸と諸島、旧都市の名前について報告する。日本人にとっていちばん身近なロシアはシベリア地方であろうが、カムチャッカ、ナホトカ、ウラジオストックなどの地名の由来について述べる。ウラジオストックという港町の日露交流史において果たした重要な役割についてお話し、合せて日本滞在中の研究テーマについてもお話したい。

(アレクセエワ氏プロフィール)

ロシア サンクト・ペテルブルグ出身。2002年、文化芸術大学日本語学科卒業後、海軍省付属中央海洋図研究所東洋部に就職。200510月より、国際交流基金関西国際センターの日本語研修に参加、日本の地名研究に取り組んでいる。

『京都の地名 検証』の書評学会誌に取り上げられる
日本歴史学会から出されている『日本歴史』(20058月号)の「新刊寸描」の欄に京都地名研究会編の『京都の地名 検証』が好意的に取り上げられている。
「我々は京都についてどれだけ知っているだろうか。出来事や人物には興味を持ち調べることはあっても、地名については場所を確認するくらいのものだろう。さまざまな地名には、命名の背景を含め、その場所特有のエピソード、シンボリックなものが存在することも少なくない。本書は京都の代表的な地名を平易な文章でていねいに解説する。研究のみならず、観光で京都を訪れる際にも本書を一読していくことをお勧めする」。

総理大臣官邸敷地は京極屋敷標識が設置される

京都地名研究会の会員である小牧誠一郎さんらのご尽力によって、東京永田町の首相官邸敷地がかつて丹後峰山藩の上屋敷であった旨を記す標識が立てられることになった。小牧さんから事務局にその経緯を記したお手紙が寄せられたので、それを掲載するとともに、標識の文章および、事の発端となった西田承元師の随筆を転載する。京都とは違った東京(江戸)という都市の成り立ちを知る参考になるものと思われる。

「拝啓紅葉のたよりを聞く好季節となりました。その後ご無沙汰を申し上げておりますが、お変わりなくお過ごしのこととお慶び申し上げます。小生お蔭さまで元気に過ごさせて頂いております。
先日、内閣総理大臣官邸事務所長から同封別紙の通知を頂きました。早速東上いたしまして標識設置にお世話になりました関係各位に御礼を申し述べ標識を拝観いたしました。
思えば平成12年秋京都新聞『窓』に掲載された相光寺住職の記事に触発され、平成13年春以来、京極家と西田師と3人が主体となり官邸敷地の沿革標識の設置について首相官邸に要望活動を始めました。
総理大臣官邸は旧官邸の移転や新官邸の構造、駐車場、庭園の整備などを終えられ、今春、立派に完成しました。標識は官邸敷地東側、都道の歩道沿いに設置されています。場所もよく見やすい立派な標識でした。
私達はここに5年有半いい夢を見させていただきながら、一つの実りを得て仕事は終りました。丹後から東京に入る人たちや修学旅行生たちは、この標識になにを感じどんな感慨を抱いてくれるでしょうか。
末筆になりましたが今後とも変わらぬご指導とご鞭撻を賜りますようお願い申し上げまして近況報告のご挨拶といたします。
平成1710月吉日 小牧誠一郎拝」

総理大臣官邸敷地の沿革

 この敷地は、武蔵野台地の東縁部に位置し、眼下には近代の初めまで溜池が広がり、近世中期には風光明媚な池として人々の憩いの景観となっていたといわれています。また、縄文時代から近世に至るさまざまな時代における人々の営みがあったことが、敷地内で痕跡として確認されています。17世紀後半には敷地内は南北に二分割され、北側には旗本屋敷があり、その後信濃飯山藩本多家上屋敷、丹後峯山藩京極家上屋敷と移り変わります。一方、南側は越後村上藩内藤家中屋敷でした。明治維新後、敷地は一橋徳川家の居宅として使用され、明治3年に鍋島家の所有となります。明治25年に完成したれんが造の洋館は大正129月の関東大震災により大きな被害を受け、その後復興局へ売却されています。大正15年、震災復興に伴う中央諸官衙計画の一環として、麹町区永田町二丁目一番地旧鍋島邸跡地に総理大臣官邸を新設することとなりました。官邸は昭和4年に完成しましたが、当時は「内閣総理大臣官舎」と呼ばれており、門には表札がかかっていました。
 その後、官邸の老朽化、狭隘化が顕著となってきたことなどから、昭和
62年、閣議了解により、従来の官邸敷地及びその西隣一帯の区域に新たな総理大臣官邸を整備することになりました。新官邸は平成14年に、また、旧官邸を改修した総理大臣新公邸は平成17年に完成し、現在に至っています。
平成1710月 設置:総理大臣官邸 監修:千代田区教育委員会

首相官邸実は峰山藩屋敷跡  峰山町・西田承元

 京都―東京間の地理的距離510キロは遠いようでも時間的には新幹線で二時間半。峰山―京都―東京間の六百五十キロは、列車の接続を含めると優に六時間はかかる。沖縄、北海道はおろか国外のグアム、香港よりも遠い現実の立地条件を端的に象徴している。
 話は徳川時代にさかのぼる。東京大学の赤門が加賀百万石の前田家上屋敷の名残をとどめているように、旧幕時代には、江戸詰藩士、参勤交代の藩主滞在の必要性からの各藩の上、中、下の藩邸が江戸にあった。峰山京極一万石、永田橋に上屋敷、木挽町に中屋敷、本所には下屋敷を構えたよし。

 時間的距離、石高といい今も昔も峰山の影が薄いままではおもしろくない。「織都」の看板を下ろしたことも残念至極。そこで東京在の京極家の当主から直接、承った故事を「夢」に仕立てたい。ニュースで首相官邸が放映されても縁遠く思えたが、実はあの用地こそ峰山藩の上屋敷跡地。異国より遠い町の峰山は、一躍「首相官邸にもっとも近い町」に変身を遂げた。京都で歴史的旧跡の場所に石碑が立っているように、峰山藩の碑も官邸入り口に建てる手だてがないものか。

【投稿】

「北村季吟の墓」桐井聰男(東京都江戸川区平井在住

私は川崎市の日本地名研究会に属し、また京都地名研究会にも参加しています。
私が北村季吟の名を耳にしたのは高校2年生の夏の補習で「連歌から俳句へ」を学んだ時でした。京都地名研究会『会報3号』に山嵜泰正氏の「北村季吟」の論文を拝読、詳しい年譜などもあって、季吟ゆかりの東京六義園などの歌会に参加した折、82歳で没した北村季吟の埋葬地「正慶寺」の場所を確認しようと思いました。
「正慶寺」は、台東区谷中を捜し歩いて、池之端2422に見つけました。正面入り口に「都史跡」とあり、入っていくと、寺の庫裏の横に北村季吟の墓があり、辞世の歌が刻まれていましたが、ほとんど判読不可能でした。後日調べましたら、「花も見つ郭公をまち出つこの世後の世思う事なき」とのことでした。
季吟が72歳で『源氏物語微意』、74歳で『八代集口訳』、81歳で『徒然草拾穂抄』を将軍の徳川綱吉に献上したとのこと、老いてなお学問に対する北村季吟の熱意に感銘します。
さて、「地名研究」は民俗的な視点や語源的な立場や歴史的・文学的な方法で解明できるのだと思いました。
(紙幅の都合で、桐井氏の寄稿の文章を要約させていただきました)

『地名探究』原稿応募要領

1 締め切り 各年度1月末日必着とする。
2 応募資格 顧問、講演者、発表者、会員、本研究会が執筆依頼した者(フォーラム発表者は旧稿推敲の上、再提出のこと)
3 内容は京都地名研究会会則の趣旨に沿ったものとする。
4 原稿A4サイズ1頁(40字×40行、横書き)とする。論文(610頁)、研究ノート(46頁)、随筆(2頁)
5 完全原稿とする。応募原稿1点および査読用2点を同封する。採用の如何を問わず、応募原稿類は写真・図版をも含めて一切返却しない。
6 写真・図版、手書き原稿の場合は応分の経費負担をお願いすることがある。
7 採択・掲載の有無については各年度2月末日頃に連絡する。各年度331日発行予定。
8 執筆に関する留意事項
  参考文献、著作権等に関わる資料は明記のこと。
  編集委員会は、応募原稿が論文・研究ノート・随筆その他の書式として整っているか、常識的にみて公正であるかによって、判断する。応  募原稿を原因とする紛争一切に対して本研究会は関知しない。上記以外の留意事項については「内規」とする。
9  送付先 詳細は通信『都藝泥布』誌上にて通知する。なお送付に際しては、「京都地名」と朱書し、書留など確実な送付手段を使うこと
  
☆今年に関しては下記に送付をお願いします。
6060078 京都市左京区上高野東田町1523 梅山秀幸方
また、投稿に際して、さらに次の点についてもご留意ください。
  
原稿はできるだけパソコンで作成する。
A 原稿作成においても本誌の大きさやページ番号の位置に合せる。
B  目いっぱい書かず、できる限り余白をもたせる。
C   タイトルと執筆者名はやや活字を大きく、3〜4行取りする。

【訃報】会員の井戸庄三氏、村井英雄氏がお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りします。

会員募集!!
お問い合わせは下記事務局へ
○京都地名研究会事務局


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     広報係 小泉芳孝に、お寄せ下さい。
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