「都藝泥布」 第16号 京都地名研究会の通信誌の第16号 (読み「つぎねふ」は「山城」の枕詞) |
(Tsuginefu) 京都地名研究会通信16号 平成18年4月1日
第15回地名フォーラム開催
1月22日(日)、第15回地名フォーラムを山城郷土資料館で行った。寒中にもかかわらず、ホールからあふれるほどの大勢の参加者があり、会場は熱気に包まれた。地元の研究者として河原勝彦氏の「『相楽』の地名について」、斎藤幸雄氏の「歌枕の里・鹿背山の文化史」という二つの発表があり、また今回始めて海外の研究者の発表があり、ロシアからの留学生であるアレクセイワ・アンナ氏が「ロシアの地名と日本の地名」と題して特別報告を行った。
相楽の地名 河原勝彦氏
(府立山城郷土資料館友の会)
河原氏はご自身の故郷でもある相楽の地名の由来や伝説について、スライドを交えて話された。開発によって失われて行く地名や伝説への深い思いがこもる発表であった。相楽の地名の由来としては、@さちある処という古代語であると言う説A渡来人の居住による外来語説、B九州から相良氏が移住して来た事を示すと言う説、C『古事記』の伝説によると言う説、Dそしてなだらかな地形によるという説があるが、地元では相良氏説が有力との事。それから相楽に残る多くの伝説を女人伝説、英雄伝説として紹介された。
まず『古事記』によると、丹波の王女四人が垂仁天皇に召されたが、二人の姫はみにくき故に帰されたという。その一人の円野姫はそれを恥じて木の枝にかかって死のうとした。その木をさがりきと言い、それでその地をさがらかと言ったと書かれている。また『日本書紀』は丹波の王女の竹野姫が容貌の醜さから帰されたことを恥じ、荒神塚池で (河原勝彦氏)
首をつろうとしたが死ねずに平野で自殺をした。平野の人々が姫を運びこの地に葬ったのでこの地を姫子というとのことである。荒神塚が今もあり、姫子橋にその名が残る。
昔、辰ケ坪の南側のイッチョウボリに、歌を作り舞をまう女性が住んでいた。歌姫という地名はその女性に由来すると言う。
英雄伝説としては赤松則村の家臣の藤井備前守が家来を連れて一本松まで逃げてきて相楽に住み着き、代々相楽神社の神主となった。ところが足利尊氏が藤井氏を追って来て、一本松の付近で七堂伽藍を焼き討ちにしたという。一新堂、大仙堂、新堂前等の地名はその名残りである。
相楽神社の八幡宮は相楽の武士達の守り神で的場、馬場の地名がのこる。またモチ花の伝説も残っている。豊臣氏と徳川氏の戦いの折、家康が逃げて来て、岡田国神社の宮司が助けて伊賀へ送ったと言う伝説も残されている。
鹿背山をめぐる文化史
斉藤幸雄氏(京都地名研究会常任理事)
斉藤氏は豊富な鹿背山の文化史を背景としてその地名を取り挙げられた。
鹿背山は山城郷土資料館の対岸である南の丘陵全体を指す。歌枕としての鹿背山は峰続きの大野山(203m)を含んでいると考えられる。『万葉集』では恭仁京のほめ歌、跡を偲ぶ歌において4箇所見られる。またそれらの歌に布当(ふたぎ)の宮、布当山と言う語が見出される。この布当山は鹿背山の別称あるいは恭仁大橋東北の流岡山をさすという説がある。
さて鹿背山の地名の由来については大井重二郎氏が山の背が鹿に似ているからとの説を、吉田金彦氏が水につかった岸の山と言う語義を提唱されている。私は河を背にしている山の意味ではないかと考える。そして後にその美しい山陵の形から鹿背山の漢字が当てられたのだと思う。
『万葉集』に大伴家持が恭仁京から坂上大嬢を思って詠った歌に一隔山(ひとえやま)が出てくるが、従来これは平城山とされる。しかし恭仁京から見て平城京の方向を塞いでいるのは鹿背山と考える。
鹿背山には小字古寺また堂田池の名があって、そこに鹿山寺という寺があったとされる。
鎌倉時代までは遡り、付近の西念寺の前身の寺であったと思われる。鹿山寺略縁起には行 (斎藤幸雄氏)
基と鹿の伝説がある。また橘清友の墓・加勢山墓あるいはその寺を起源とするという橘氏に関わる創建説もある。地元では行基が忘れられむしろ橘さんと呼ばれている。しかし橘氏は現在の井手町地域との関わりが深く、清友の墓も井手町内にあったのではないか。『続日本後紀』には相楽郡抃山墓とあり?という漢字ではないことが注意される。さだから鹿山寺については行基との関連を考えるのが良い。行基は恭仁京建設にも関わり、また鹿背山の良質な粘土で陶器を作り製法を伝えたと言う行基焼き伝説も残る。行基による前身の寺が鹿背山にあった可能性もある。
ロシアの地名と日本の地名
アレクセイワ・アンナ(中央海洋図研究所国際部)
現在、日本に留学中で龍谷大学で『万葉集』の枕詞を中心に日本の地名の研究をされているアンナさんの発表はこのファ−ラムに国際的な広い視野を加えていただいた。
1.ロシアの日本地名研究
ロシアが日本という国を意識したのは17世紀中頃であり、鎖国体制の中にあった日本がロシアを意識したのは18世紀後半であった。ロシアにおいて日本への関心が高まるようになるのは、1854年11月に津波のためデイアナ号が下田で被災大破した出来事である。
ロシアの日本地名研究は19世紀後半に始まる。それはアイヌ語の研究からであった。
また『風土記』は地名研究のための最も重要な書物とされた。言語学の金田一京助、民俗学の柳田国男、地名辞書の吉田東伍の書物等が地名研究の資料として知られ、鏡味完二氏の地名研究も知られている。
1961年4月にはソビエト連邦全国地理学研究会モスクワ支部や科学アカデミ−アジア民族研究所、同地理学研究所等が合同して「東洋地名学」の会議が開かれた。
2.ロシアの地名
日本にもよく知られた沿海州のロシア地名を紹介された。
@ウラジオストック ストックは東、ウラジオは領有の意味である。1860年6月に正式にロシアの州として命名されされた。
Aナホトカ 掘り出し物、見つけた物の意味である。現在、舞鶴、敦賀、小樽と姉妹都市の友好関係にある。
Bカムチャッカ 住んでいた民族の名によっていると言われる。また征服者の名から来ているとの説もある。
今回、こうして地名の発表が出来た事を心から感謝しています。
第5回京都地名シンポジウム(設立五周年記念大会) |
【佐々木高明氏講演要旨】
東北地方の北部を中心に「ナイ」「ペツ」「ウシ」などで代表されるアイヌ語地名が集中的に分布していることが山田秀三氏の丹念な調査で明らかになっている。他方、後北式或は北大式とよばれる続縄文時代の土器が北海道から南下し、その分布域がアイヌ語地名の分布とほぼ重なり合うこともわかっている。この二つの事実から、「北からの文化」が、ある時期に日本本土に伝来したことが明らかになる。また、このような事実をもとにして、エミシ・エゾ・アイヌの問題などについても考えてみることにしたい。
(佐々木氏プロフィール)
1929年大阪府生れ。京都大学大学院文学研究科修了。立命館大学、奈良女子大学を経て、国立民俗学博物館教授、同館長。現在、同館名誉教授。アイヌ文化振興・研究推進機構理事長(平成15年3月退職)。文学博士。紫綬褒章受賞。
主な著書に『稲作以前』(NHKブックス)、『東・南アジア農耕論』(弘文堂)、『日本史誕生』(集英社)、『日本文化の基層を探る』(NHKブックス)、『日本文化の多重構造』(小学館)『多文化の時代を生きる』(小学館)、『縄文文化と日本人』(講談社)、『南からの日本文化 上・下』(NHKブックス)など多数。
【池田末則氏講演要旨】
地名は石器や土器類などの考古学的遺物と同等の価値をもつ文化的遺物である。しかし、出土遺物が完全な姿で検出することが稀であるように、地名もまた転訛、改字、誤写されることが少なくない。特に遺跡地名は土地台帳の記述に起因することが多く、特にカタカナで書かれた場合の誤写の実例が多い。旧土地台帳の変体カナにいたっては全くむずかしい。カタカナ小字用字の誤写例についても検討してみたい。
例えば、先日の新聞記事では亀・虎の壁画の存在から亀虎古墳であったが、キトラ古墳に転じたとある。しかし、実際は小字「上山」の小古墳であった。小字「北浦(キトラ)」は百例以上もある(奈良県)。そして、「北浦」か「北裏」か。遺跡地名の用字を再吟味する。
(池田氏プロフィール)文学博士。日本地名学研究所長。元奈良大学講師(地名伝承学)。奈良市文化財保護審議会委員。同市住居表示審議会副会長。『日本地名伝承論』(平凡社)他、多数の編著書がある。
【金坂清則氏講演要旨】
日本を代表する歴史都市京都は、歴史地名の最大にして最重要の宝庫でもある。他方、地名は人々がさまざまな広がりをもつ地域や場所を、ひとつのまとまりとして、ほかと区別できるものとして認識することによって誕生し、伝播を経て定着してきたものであるからには、当該地名の「言葉」としての側面のみならず当該地名に関わる「地域」や「場所」という側面、端的に言えば「どこ」ということを直視した研究が求められる。このような地図や地図化などを重視する地名の歴史地理学的研究は、平凡社の『日本歴史地名大系』全50巻、角川書店の『角川日本地名大辞典』全49巻の偉業を超えるために不可欠である。本講演では、このような私の考えを、町通という地名や、突抜地名、辻子地名、風呂屋地名、生業・屋号地名についての考証を通して明示し、併せて、場所を「地名で読む」とはどのようなことなのかということを、長岡という地名を例に示してみたい。
(金坂氏プロフィール)1975年、京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。福井大学教育学部講師・同助教授、大阪大学教養部助教授・同教授、同文学部教授を経て、1996年より京都大学大学院人間・環境学研究科教授。専攻は人文地理学。『福井県史 資料編16上 絵図・地図』(共編著、福井県)、『イザベラ・バード 極東の旅1、2』(編訳書、平凡社)など。
2006年度京都地名フォーラム
第16回 テーマ:京の史実と伝承地名
日時 7月23日(日)午後2時〜5時
会場 龍谷大学大宮学舎
@山嵜泰正氏「信長の京都焼き討ち―ルイス・フロイス『日本史』の京都地名を読む―」
A明川忠夫氏「小野と地名伝承伝説」
第17回 テーマ:丹後の地名(仮)
日時11月26日(日)午後2時〜5時
場所 京丹後市アグリーセンター
第18回 テーマ:綴喜地方の地名(仮)
日時2007年1月14日(日)午後2時〜5時
場所 同志社大学今出川校舎
【地名随想】
水主皇女について 斎藤幸雄
一年ほど前に本欄の「地名随想」(『都芸泥布』12号)で、「古代地名栗隈」と題する原稿を寄せたが、その栗隈出身の女性に水主内親王がいる。天智天皇の皇女である。母は栗隈首徳万の娘黒媛(『日本書紀』天智紀。『本朝皇胤紹運録』は「黒姫」とする)で、采女として宮中に仕えていた女性であろう。水主内親王は、霊亀元年(715)1月、時に四品で封百戸を賜り、天平9年(737)2月、同三品となり、8月20日薨じた(『続日本紀』)。仏教の信仰に篤く、所有の『水主宮経』(死後東大寺に施入)は写経のために各所に貸し出されその目録も作製されたという。『万葉集』(20巻4439番)には、内親王の病を慰めるため雪を賦する歌を詠むよう、太上天皇(元正上皇とされる)が侍女らに命じた時、石川命婦(坂上郎女の母)一人これに応じたことがみえる。
それはさておき、「水主皇女」(『日本書紀』天智紀・『本朝皇胤紹運録』、『万葉集』・『続日本紀』は「水主内親王」とする)の「水主」をどう訓むのか問題にしたい。『日本書紀』や『万葉集』のテキストや注釈類をみると、そのほとんどは「もひとり」とよませている。いま手元にあるものをあげると、日本古典文学大系の『日本書紀』・『万葉集』、新潮日本古典集成の『万葉集』、新編日本古典文学全集の『日本書紀』、日本古典文学全集の『万葉集』、講談社文庫の『万葉集』(中西進校注)、角川文庫の『万葉集』(伊藤博校注)、武田祐吉著『万葉集全講』、新日本古典文学大系『続日本紀』等々である(国史大系本『日本書紀』は「もんどり」とする)。
モヒトリとは、「主水・水取」の文字をあて、天皇の食用の粥・水・氷室などの管掌をいい、それを司る役所を主水司(もひとりのつかさ)(大宝令の制で宮内省所属)という。だが、水主皇女と主水との関わりは不明、というより根拠がない。それに「水主」と「主水」とでは文字も上下が逆である。実は「水主」はミヌシと訓むべきで、これは役職名などではなく、地名なのである。いまも南山城の城陽市に「水主(みずし)」の地名が残っている。水主皇女の出身氏族栗隈氏は、前記の「古代地名栗隈」でも書いたが、宇治市南部〜城陽市北部にかけて勢力を張っていたと思われる。古代郷の那紀・栗隈・久世の範囲で、久世郡に含まれる地である。水主は久世郡久世の南に位置する(同じく久世郡のうち)。水主氏は栗隈大溝(おおうなて)の管理にかかわっていた氏族と思われ、栗隈氏と友好関係にあったと考えられる。水主皇女は、水主の地で育ったことからきた名であることは疑いない。
このことははやく折口信夫著『万葉集辞典』(大正8年)が指摘している。最近では故横田健一氏が「水主皇女は『書紀』等諸本にモヒトリとよむが、ミヌシとよむ方がよい。(中略) 栗隈首(のち連)と水主直とは近隣で姻親戚関係もあったかもしれない」(『明日香風40号』「川原寺と水主皇女」、平成3年)と指摘している。その他では『日本古代氏族人名辞典』(坂本太郎・平野邦雄監修、平成2年)が「みぬしないしんのう」で立項しているのがわずかな例外である。ところが、1932年(昭和7)発行の岩波文庫『日本書紀』(いまのものは昭和40〜42年発行の前記日本古典文学大系をもとにしている)が、すでに「みぬし」と訓ませているのである。そういう例があるのに、現在ではモヒトリの訓が主流あるいは定説であるのは残念で、これは水主の地名を知らない校注者の責任でもあろう。以上は城陽市に住むわたしの我田引水では決してないと思っている。
【新刊予告】
『京都の地名検証 続編』
大好評の既刊に続き、研究会の総力を上げて、目下編集中、まもなく出版。京都の古い歴史と文化は、先ず足元の地名の確認・調査・研究・検証から。予約申し込みは京都地名研究会事務局へ。
【既刊案内】『京都の地名検証―風土・歴史・文化をよむ』
会員が歩いて見て調べて考え、執筆した京都市内と府内の地名を精選。手作りの写真・地図も入れ、ユニークさが受けている大人の観光案内書。京都地名研究会編。本文429ページ 3000円 平成17年勉誠出版。
【関連書籍案内】
☆『京都の地名を歩く』 京都市・府内の重要地名について意味と由来をわかりやすく説いた必須図書。昭和59年〜平成元年の文を改定したロングセラーの新版。吉田金彦著 本文343ページ 1333円 平成15年京都新聞出版センター。
☆『日本地名学を学ぶ人のために』 地名という文化財に向けて30人の学者が執筆した地名の基本図書。地名の本質と重要性を説き、研究方法を述べ、基本文献資料を紹介。吉田金彦・糸井通浩編 本文350ページ 2300円 世界思想社。
【編集後記】
今回、山城郷土資料館で行われた第15回フォーラムの記録は安藤信策さんにお願いしました。アレクセイワさんのロシアからの視点には日本の研究者を刺激するものがあるのではないでしょうか。「地名随想」は斉藤幸雄さんに、ページが埋められないと急にメールでお願いして、即日添付ファイルでお送りいただいたものです。南山城地域の歴史の厚みには驚かされますが、それにしても、権威ある出版社から出た本であり、権威ある学者が注釈しているからといって、必ずしも信用していいわけではないことを、あらためて教えていただきました。「水主」の訓は斉藤説の方が正しそうです。やはり地域に根ざした研究および研究者の意義は大きい。さらに多彩な「地名随想」とするために、皆さんの投稿をお待ちしています。(梅山記)
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