「都藝泥布」 第7号 京都地名研究会の通信誌の第7号 (読み「つぎねふ」は「山城」の枕詞) |
第六回例会報告
10月19日(日)、京田辺市で第6回例会を行った。
メイン・テーマは「秘められた南山城の地名を探る」。さわやかな秋晴れのもと、名田辺市郷土史会との共催ということもあって、会場の京田辺市中部住民センターには約100名の来聴者があった。
午前中は基調講演として、塚口義信堺女子短期大学長「神功皇后のふる里を探る―南山城の"息長"の地名を手掛かりとして―」があり、さらに本会から小泉芳孝常任理事「竹取物語ゆかりの筒木について」、石田天佑常任理事「南山城の神社と伝承について」の二つの講演があった。午後は、吉田金彦代表理事の「つぎねふ山代と河内との関係」のコメントによって口火が切られ、講演を行った3氏に吉田氏、斉藤幸雄氏を加えた5名をパネリストとして、シンポジウムが行われた。司会は古川章氏。
参加者たちは熱心にメモを取りながら講演やシンポジウムに耳を傾け、積極的に質問が行われた。メインホールの一角には京田辺市郷土史会によって『竹取物語』コーナーが設けられ、パネル展示などが行われて賑わった。
神功皇后のふるさとは南山城(塚口氏)
従来、神功皇后の伝説は、滋賀県坂田郡付近を拠点とした息長氏によって伝承されたと考えられてきた。しかし、神功伝説の中に坂田郡のことが一つも見えないのは不合理ではないかと、塚口氏はいう。氏は、神功皇后の系譜に山城南部の地名に関わる人物名が多く登場することを指摘、坂田 (塚口義信氏)
郡の息長氏が有力となる6世紀以前から、山城南部の息長氏一族によって神功伝説は語り伝えられて来たのではないかという。京田辺市の普賢寺の山号の「息長山」をはじめとして、「綴喜」「高木」「綺田」などは、息長氏の名残をとどめている。6世紀に継体天皇が筒城宮に来たのも、この一族と坂田郡の息長氏が支援したことによるのではないか。塚口氏は『記紀』の神功伝承の性格を解き明かすことから始まり、豊富な資料を駆使して説得力のある論を展開した。
『竹取物語』ゆかりの筒木(小泉氏)
小泉氏によれば、京田辺市に伝わる社寺の由緒書や古文書には、神代について書かれたものが多い。氏は、多くの資料を長 (小泉芳孝氏)
年にわたって目にしてきて、最近になって『記紀』に記された「筒木」にかかわる人名や地名が有機的なつながりをもって具体的なイメージとして浮かび上がってきたという。『竹取物語』のかぐや姫のモデルは『古事記』の大筒木垂根王の娘の迦具夜比売命であり、竹取の翁は山本駅の駅長または長老だったのではないかと、氏は問題提起を行った。
国際的だった南山城(石田氏)
南山城は古くから南方や中国大陸、そして朝鮮半島などから渡来人が住み着いた地で、『記紀』や『万葉集』に見える地名 (石田天佑氏)
・神社名・人名にも、これら異国の言葉が反映されていると、石田氏はいう。特に継体天皇や仁徳天皇のこの地との関係や各神社の祭神について、氏は古代日本語・中国語・古代朝鮮語・満州語などの豊富な言語学的知識を駆使して、その濃厚な影響関係について報告した。(以上、真下記)
つぎねふ山代(吉田氏)
「ヤマシロ」にかかる枕詞「ツギネフ」の意味について、諸説ある中、吉田氏は「次嶺経山城道」(万葉集・3314)という表現から、「次の(隣の)嶺」を「経(フ)=経由する」の意味であると解釈する。また、「ヤマシロ」の表記についても、「山代」は高地性集落を営んだ縄文―弥生人が里山付近に暮らした名残として、山を治める、山を拠り所にするという意味とし、「開木(=山)代」に通ずるとする。また、「山背」は文字通り山の背後という意で、奈良から見た平城山の後となる。難波の宮から見た場合もすべて山の背にあたることになる。そこから、「ツギネフ」が「次の嶺を通っていく」という意で、奈良・難波の宮から見て山の背後「ヤマシロ/山背」に付く枕詞であると、地理的視点を持って考察される。
また、本来「ツギネフ」のツギは「ツヅキ(綴喜)」に関わるもので、元の「ツツキ(筒 (吉田金彦氏)
城・筒木)」の語源「ツツキ(津々来)」の変化であるとも考えられると、吉田氏はいう。つまり、河川をさかのぼってやってきた仁徳天皇が示すように、弥生人たちが多くの「津」を経てやってきたという記憶が語源になったというのである。普賢寺の「ウツギ(宇津木・宇頭城)」も交通地名であり、「ウ・ツギ(宜しい―継ぎ)」、格好の中継地と解釈され、位置的にも古代交通史上の要地であり、葛葉〜宇頭城〜都という継体天皇行幸路に重なってくる。吉田氏は、地名と枕詞の密接な関係を、国語学、歴史学、地理学という多面的な切り口から説かれた。
(以上、忠住記)
第7回例会報告
10月の南山城に引き続き、11月16日(日)には丹後地方で第7回例会が行われた。会場は宮津市の「みやづ歴史の館」。この時期、地域では秋祭りをはじめとした各種の催しが重なる。発表者自身が地域の催しには欠かせない役職につかれている場合があり、発表後すぐに他の会場にとんぼ返りをなさるという曲芸を演じられるようなこともあった。多くの参加者を期待するには必ずしも好条件とはいえない中、まずまずの40名の参加者があり、活発な質疑も行われて盛会であった。発表は三人の方々で、
上谷正男氏「『丹後』地名考」、村上政市「麻呂子伝説と地名」、安藤信策氏「天女伝説と『丹後』」が行われた。
東北にもある丹後町(上谷氏)
上谷氏は七年前に青森県の三内丸山遺跡を見学したおり、そこで購入した青森県の遺跡案内の書物に「丹後平遺跡」、「丹後 (上谷正男氏)
谷地遺跡」の記述があり、八戸にも「丹後」という地名が存在することを知ったのだという。その後、八戸を訪れる機会を作り、実際に現場を歩きまわって、京都府の丹後の地形との類似を確認した。その結果、丹後はアイヌ語のtanne-ushor(細長い―入り江)から来たのではないかと、上谷氏はいう。Ushorに「後」をあて、それを「ゴ」と読むようになったというのである。本州の地名をアイヌ語で解釈することについては、金田一京助、知里真志保といった他ならぬアイヌ語学者らによって、水をさされてしまったが、現在、第何次かのブームが押し寄せているように思われる。金田一、知里らにとらわれる必要はなく、アイヌ語を学習することによって、明らかになることが多いと思われる。しかし、アイヌ語からの地名解釈が説得力をもつためには、さらに学問的な手続きが必要なのではないかと思われたのも事実である。
麻呂子親王から源頼光へ(村上氏)
「日本の鬼の交流博物館」の館長の村上政市氏は、日本全国の「鬼」のつく地名について、東北では坂上田村麻呂の蝦夷征討に関わり、関東では平将門に関わる。中部地方では「鬼女」伝説が目立ち、近畿地方では修験道に関わりが深く、九州では「鬼塚」などが多いといった、地域差について言及。さらに由緒のある名前も忌避され、(村上政市氏)
消滅の憂き目に遭うこともあるといった現状が指摘された。
夜な夜な都に現れては貴族の娘を連れ去り、ついに源頼光主従に討伐された大江山の酒呑童子の伝説は有名だが、この丹後地方では、古くは、聖徳太子の異母弟麻呂子親王の鬼退治の伝説が寺社の縁起として伝わっている。謡曲『丸子』において「三上山」とされるのも大江山であり、鬼退治したのは、本来は麻呂子親王であった。親王の従者と称する家筋がいまだに続いてもいる。麻呂子親王伝説は酒呑童子伝説にしだいに吸収されてしまうが、麻呂子親王は別名金丸王子、金屋王子ともいい、この伝承の背後には製鉄集団の影があると、村上氏は指摘した。
天に帰らなかった丹後の天女(安藤氏)
安藤氏によると、余呉湖、美保の松原、そして丹後の天女が「日本の三天女」であるが、丹後の天女だけが、ついに天に帰ることはなかったという点でユニークなのだそうである。『風土記』によれば、天女は比治の真名井に天 (安藤信策氏)
下り、和奈佐の老夫婦のもとに引き取られて、酒造りでその家を富ませたものの追い出され、荒塩、哭木と転々として、最後には奈具にとどまることになる。それらの土地はいまなお残り、また固有の伝承も伝わっていて、和奈佐の老夫婦の子孫だという家も残っているのだという。さらには、最近の発掘によって、天女が留まったという奈具には、巨大な奈具岡遺跡があって、玉造りの工房も発見された。安藤氏はついに天に帰らなかった天女の伝承の中に、海の彼方から優れた技術をともなって渡ってきて、丹後地方に住み着いた海人族の姿の投影を指摘する。
第8回例会日程
1月25日(日)午後2時〜5時
於:龍谷大学大宮学舎 清和館3階大ホール
(七条大宮にあり、京都駅から徒歩で10分程度です。ふるってご参加ください。)
T、忠住佳織龍谷大学院生
「京都盆地の歌枕―三代集・枕草子の歌枕を中心に―」
U、明川忠夫説話・伝承学会会員
「人康親王伝説と地名」
V、小寺慶昭龍谷大学教授
「愛宕と秋葉の地名分布」
【第8回例会発表要旨】
忠住佳織氏
「京都盆地の歌枕―三代集・枕草子の歌枕を中心に―」
和歌に詠まれる地名、いわゆる「歌枕」は、その地にかかわる特定のイメージを背負うことばで、作歌活動に不可欠なものであった。その名の個々のイメージは、実景を見ることもなく、中央貴族らの手によって多様にふくらみ、その名の響きの面白さなどは、「歌枕」の背負う決定的なイメージとなった。
今回は京都盆地の「歌枕」を整理し、現在でも地名として残るそれぞれの「歌枕」を取り上げるとともに、「歌枕」からみる《都(京都)》―《鄙(地方)》意識についても考えたい。
[忠住氏紹介] 1976年、福井県生れ。現在、龍谷大学博士後期課程在学中。
明川忠夫氏
「人康親王伝説と地名」
『宇治拾遺物語』によると、鎌倉時代、今の京阪四宮駅付近は四宮河原といった。京都への出入り口にあたる要衝の地で、率分所(関所)が設けられていた。人が集まる所には多くの雑芸人がいた。
四宮には人康親王の遺跡が多い。諸羽神社にある琵琶石、十禅寺の親王像、今は宮内庁管轄の陵墓となった親王の供養塔、親王の末裔が初代住職であるという徳林庵、その前の地蔵堂、人康・蝉丸共有の供養塔と枚挙に暇がない。四宮の地名由来を仁明帝四宮の人康親王に求める説は一般的であるが、それ以前にもう一人四宮がいた。琵琶の名手蝉丸である。雑色の身分の蝉丸は「延喜(醍醐)第四の宮なれば、此関あたりをば四宮河原と名づけたり」(『源平盛衰記』)と、身分を格上げして記されている。蝉丸も人康親王も、賎しい身分であった盲目の琵琶法師たちが創りだした皇統始祖伝承である。
それにしても、なぜ、どちらも「四宮」にこだわったのか。それは京の出入り口である境界の地に芸能を司る宿神が祀られていたからではなかったか。琵琶法師たちは「祝神を守護神」(『座中天文記』)としてきた。「祝」「宿」(シュク・シク)から、帝の「四宮」(シク)へと連動したと考えられる。蝉丸から人康親王へと至る過程には、さまざまな歴史があったにちがいない。江戸時代前後から、蝉丸は逢坂の関、人康親王は四宮を中心に新たな伝承を創出していくことになる。
[明川氏紹介]1934年、京都市生まれ。同志社大学卒業後、同志社香里中・高教諭を務め、定年退職。著書に『小町伝説』『小町伝説を歩く』など。
小寺慶昭氏
「愛宕と秋葉の地名分布」
愛宕や秋葉の地名は、愛宕信仰および秋葉信仰から出た名だと思われる。信仰の中心は京都市の愛宕神社と静岡県の秋葉山本宮秋葉神社だが、いずれも山頂にあり、天狗伝説を持ち、古くから火伏せの神として民間の篤い信仰を集めていて、かなりの共通点が見られる。とすれば、愛宕と秋葉の地名分布を調べることにより、どの地域でどちらが主に信仰されてきたのかも見えてくるのではあるまいか。
多くの京都人にとっては愛宕が身近であり、秋葉は東国の香りがするようだ。つまり、愛宕と秋葉は東西で「棲み分け」をしているとの印象があるようだが、果たしてそうなのだろうか。
以上の問題意識から愛宕と秋葉の地名分布について報告したい。
[小寺氏紹介]1948年、京都府生まれ。25年間国語教諭として、国・公立中学等に勤め、1995年から龍谷大学に勤務、現在に至る。今秋、『大阪(なにわ)狛犬の謎』(ナカニシヤ出版)を出版。
地名関係書404冊を寄贈
中野正文氏から
中野正文氏(伏見区・特別会員)は11月2日、当会へ404冊の地名関係書籍を寄贈された。これらの書籍は正文氏の父君の故文彦氏や池田末則氏(当会顧問)が日本地名学研究所(池田所長)の前身である大和地名研究所を設立した当初(1942年)から出版・収集していたものである。文彦氏逝去後、正文氏が自宅に保管していた。
書籍の寄贈は、京都地名研究会が進めている地名文化資料館建設計画(田上源・建設普及委員会責任者)にあわせて、当会の申し入れで実現した。寄贈本には、『大和地名大辞典 正・続』『地名学研究 上・下』『日本歴史地名総索引』『愛知県地名集覧 本文・索引』『和名類聚抄国郡部』など日本地名学研究所が発行したものに加えて、『柳田国男著作集』(筑摩書房)『東大寺開田図』(東大史料編纂所)『奈良六大寺大観』(岩波書店)を初めとして、近現代の地名研究者の辞典類・著書など。資料館の建設までは田上常任理事が責任をもって管理することになる。
小牧誠一郎氏に旭日小綬賞
本研究会の会員であり、本年4月まで府会議員を勤められた小牧誠一郎氏が、長年の地方自治における功績をもって、この秋、受勲されました。祝意を表するとともに、今後いっそうのご活躍をお祈りいたします。
【訃報】本研究会会員の西川滋さん(京田辺市)がお亡くなりになりました。心からご冥福をお祈りいたします。
次年度のスケジュールについて
京都地名研究会も3年目を迎えることになります。これまで順調に会員数も増え、発展を遂げてきて、当初絵空事のようにも思えた資料館の建設という計画もすでに日程に入りつつあります。そのためにも、会の活動の内容についていっそうの充実を期す必要があると思われます。
現在、決定しているのは第3回総会・大会の日時と、今年度と同じく4回の例会を京都市と京都府北部と南部とで行うことです。詳細についてはは決定次第お知らせします。
第3回総会・大会
2004年4月18日(日)
龍谷大学大宮学舎 清和館3階大ホール
午前:理事会 午後:総会・大会
夕:懇親会
「地名研究」第2号原稿応募要領
1 締め切り 平成16年1月末日必着。
2 応募資格 顧問 講演者 発表者 会員 本研究会が執筆依頼した者(例会発表者は旧稿推敲の上、再提出のこと)。
3 内容は京都地名研究会会則の趣旨に沿ったものとする。
4 原稿 A4サイズ、1頁を40字×40行とし、論文(6〜10頁)、研究ノート(4〜6頁)、随筆(2頁)とする。
5 完全原稿とする。応募原本1点および査読用2点を同封する。採用の如何を問わず、応募原稿類は写真・図版をも含めて一切返却しない。
6 写真・図版、手書き原稿の場合は応分の経費負担をお願いすることがある。採択・掲載の有無については平成16年2月末日頃に連絡する。平成16年3月31日発行。
7 執筆に関する留意事項
☆参考文献、著作権等に関わる資料は明記のこと。
☆編集委員会は、応募原稿が論文・研究ノート・随筆その他の書式として整っているか、常識的に公正であるかによって、判断する。
☆応募原稿を原因とする紛争一切に対して本研究会は感知しない。
☆上記以外の留意事項については「内規」とする。
8 送付先 〒603-8555 京都市北区上賀茂本山 京都産業大学845号 池田哲郎宛。なお、「京都地名」と朱書し、書留など確実な送付手段を使うこと。
9 抜き刷りについては、各自が印刷所(後にお知らせします)に交渉すること。
【編集後記】
秋の夜ふけ、比叡山麓の我が家では牡鹿の雌鹿を呼ばう声が聞かれ、夕方には姿を見かけることもありました。紅葉の季節から一気に師走へ、京都地名研究会もいよいよ三年目を迎えて、正念場です。
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○ 京都地名研究会事務局
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