「都藝泥布」 第12号 京都地名研究会の通信誌の第12号 (読み「つぎねふ」は「山城」の枕詞) |
(Tsuginefu)京都地名研究会通信12号 平成17年4月1日
第3回総会・大会開く
第12回例会(講演会)報告 05.1.30
於城陽市東部コミュニティセンター
(今回の京都地名研究会の例会は城陽市東部コミュニティーセンターとの共催で行われました。)
発表1(芝野康之氏)
木津と木屋―南山城の古代―
加茂町教育委員会所属の芝野氏は、現在日夜恭仁京発掘調査に従事しておられる方であり、常に木津川を眺め歴史的思考を重ねてこられた研究者である。そういう問題意識からの「木津と木屋」に力点を据えた南山城の古代地名の考察であった。
木津川ははじめ泉川とよばれ、記紀にも登場する。平安末か鎌倉初期頃に木津川と次第に名称が変動していくが、それもはじめは「コツ」でやがて「キヅ」となる。材木の陸揚げ地が木津であり、当初は泉木津といった。その材木を運ぶのに峠を越さねばならない。少しでも軽くするために加工する必要があった。その作業場が木屋である。和束町には木津川流域に地名木屋があり、木屋峠・杣田(万葉集には和束杣山がみえる)の地名が残る。津にも木屋(泉木屋)があったがその場所はわかっていない。 (芝野康之氏)その木津町に岡田国神社がある。加茂町に岡田鴨神社があるように、岡田は本来加茂町の地名である。カモとクニは岡田の域に属するようで併称されている。クニは盆地をいい、カモは山城国風土記逸文によれば神名である。加茂町大野には岡田国神社の旧跡地も伝えられている。岡田鋳銭司・岡田駅・岡田離宮もあった。岡田国神社は近世では天神社であったが、明治に調査されての(触書が出ている)改名であった。創建後において加茂町から木津町へ合祀されたものらしい。岡田という地名がどこからきているのか、ということも興味ある問題である。かつてはあったが消えてしまった地名の復元をはかり総合的に考察していくことも、大事なことだと思った。
発表2(生谷陽之助氏)
一宮と旧諸国に関わる地名
生谷氏は昭和62年から平成10年にかけての11年がかりで、旧諸国68カ国の筆頭の神社であった一宮87社を巡拝したという。これはすごい情熱である。
その体験から実感した神々のルーツや歴史的変遷の興味より発した、神社(一宮、二宮、三宮……)と旧諸国に関わる地名の (生谷陽之助氏)
考察である。かつては「一宮巡歴」なるものもあったという。栃木の宇都宮はイチノミヤから転じた地方なまりの転訛ともいう。
一宮の文献第一号は、今昔物語集だという(周防国一宮玉祖大明神)。その一宮は諸国単位ばかりでなく、郡・荘園・郷村単位の一宮〜も数多くあり、その具体例として丹波国船井郡山内荘園や天田郡荘園などをあげられた。後者は「イチノミヤ」ではなく「イッキュウ」であるのも、地名の変遷としておもしろいところである。
その発生についても諸説があるが、平安以後諸国の中の主要な神に対するランク付けからきたものらしい。国家的な守護神から、あるいは地域の守護神の場合もあり、そのありようは多様である。一宮の成立については三説が紹介されている。相互伝達機関としての窓口機関説や、国司の参拝順位順列一位からくるという説、さらに社格・神位が高い神社からきているなどである。いずれにしても時代の変遷を経ていることは見逃せない。
一国二つの一宮が発生していることや、諸国に数多くある一宮関係の地名、あるいは旧諸国名をもつ地名の実際や地名が消える市町村合併の推移など、それぞれ実地踏査に基づく具体的な地名をあげての熱弁であった。たいそうユニークな探究で、地名研究へのアプローチにもさまざまな方法がありうることを示唆した発表であった(この例会報告は城陽市での開催に一方ならぬご尽力をいただいた、本会常任理事でもある斎藤幸雄氏の執筆によるものです)。
今年度の日程決まる!! 第4回京都地名シンポジウム ―地名研究の方法― 第13回京都地名フォーラム @吉田金彦氏「京都地名 検証」紹介 第15回京都地名フォーラム (これまでの「例会」の名称を「京都地名フォーラム」と改称します。今後、地域の団体との共催をはかり、より公開性をアピールするためです。) |
第4回京都地名シンポジウム ―地名研究の方法― 第4回京都地名シンポジウム 会費3500円 |
【金田章裕氏講演要旨】
日本の小字地名には、土地管理という大きな特色があるが、その側面から小字地名を歴史的にたどってみたい。律令体制の時代から明治時代に至るまで、土地を管理する目的のために、小字が決められ、名が付けられた。小字地名は非常に古いものから新しいものまであるが、「村」や「字」は通則として一貫して存在した。江戸期には、幕府とは無関係に、各藩ごとに用水・道路・労働力の確保のために土地管理がなされ、明治期以降は国の方針としてそれが行われた。
小字地名の由来にはいろいろあり、分類することはむずかしい。自然地名、行政地名、災害地名など、いうはたやすいが、意味づけに重複が生じ、分類すれば、はみ出すものが出てくる。意味のともなわないつけ方として、明治期には、イ、ロ、ハとか、甲乙、丙、丁とか、あるいは数字が使われることがあった。村や字の名を制度史から見るか、他の視点から見るか、研究態度にも差異がある。
「村」は大きなテーマであり、さまざまある。古くから村の実態はあったものの、それが制度化されたのは律令期より後である。私の『古代荘園図と景観』(1998年東大出版会)を参考に話したい。
[金田章裕氏プロフィール]
1946年生まれ。京都大学大学院博士課程修了。追手門学院大学を経て、京都大学文学部教授。現在、京都大学副学長。著書に『古代日本の景観』(吉川弘文館)・『オーストラリア景観史』(大明堂)・『古代荘園図と景観』(東大出版会)・『古地図からみた古代日本』(中央公論新社)・『古代景観史の探究』(吉川弘文館)など。
【鏡味明克氏講演要旨】
名著吉田東伍編『大日本地名辞書』の『汎論索引』(明治40年)には「行政区改正論」を付録し那珂通世の「行政区の名称境界に関する私議」を引いてこれを論評した「行政区の名称に就きて」(明治36年)が収録されている。この両者の論は明治初期の変動期に行政区の編成命名が拙速や混乱の中で行われたことを指摘し、歴史地名の正しい継承を行政区と名称の改正案によって示そうとしたものであり、市町村合併で歴史的地名が軽視されている今日、改めて学び読む意義を感ずる。この問題意識を持って、この名著の論を読みながら論評を加えたいと思います。
[鏡味氏プロフィール]
1936年名古屋市生まれ。大阪市立大学文学部卒業。東京都立大学大学院修了(国語学専攻)。岡山大学などを経て、現在、愛知学院大学教授。著書に『地名の語源』(角川書店)・『地名学入門』(大修館書店)・『地名関係文献解題事典』(同朋社)など。
【吉田金彦氏講演要旨】
この度われわれは総力上げて『京都の地名 検証』の第一弾を刊行した。まさに「敢行」で、会員思い思いの調査研究の最新の成果が盛られている。この本が広く愛用され、もしミスがあれば正して、より質の高い「京都の地名の案内書」になる事が期待される。宜しくご声援給わりたい。
そういう状況下で、特に密かに考えている京都の目玉が六つあると思う。三つの「京」と、三つの「宮」だ。三つの京とは勿論「平安京」「長岡京」「恭仁京」、これは日本の都城として栄え、あるいは挫折した都である。三つの宮とは「菟道宮」「筒城宮」「弟国宮」で、宇治・京田辺・長岡京にそれぞれ宮処があった。この三都・三宮は他府県にない京都特有の文化遺産だから、もう周知のことだし、大切なことはいうまでもない。しかし、この三都三宮物語も、後になるほど順に関心が逓減しているかに見え、もしそうなら、ちょっと寂しい。
古くなるほど史実が薄れ、伝承や文学に傾斜するのは、やむを得ない。が、日本史の弱体化を少しでもカバーするのは、地誌や地名学である。
地名の側から、三つの宮処など、もっと追求してもよいのではないか。歴史地理学や考古学に加勢を得て、地名学が貢献できるとすれば、村・字の名、山・川の名、そういった地名の検証であろう。たとえば、乙訓郡の元になった弟国評、その起源の弟国宮、宮処のあった長岡京「今里」はどんな所か。今里の「今」は何時の今なのか。制度としての今里村ができる前の村名は、何だったか。
今里の古絵図を見ると、乙訓寺の横に「居村」とあるのは、どう関係するのか。天神池の南が「赤根」であるのは、池尻から綺麗な清水(アカArgha)が出るのに因んだ、とされるのは、公式か伝承か、継体天皇の宮処が、赤根天神社の辺りに求められそうだとすると、公式な赤根のアカ(閼伽)の意味の前に、ベースになる先導地名があったのではないか、とも考えられる。
私は何でも、その前は?と勘ぐる癖が出てしまう。だが、弟国宮と書かれた、その文字の意味があるように思えてならない。金田・鏡味両先生のご批判、会場の皆さんの意見も伺って、勉強したい。
【地名随想】
古代地名「栗隈」 斎藤幸雄
さる1月30日に第12回例会があった城陽市東部コミュニティセンターの門の前の通りは、万葉集にうたわれている「鷺坂」である(異説あり)。通りの向かい側にある久世神社の境内には通り(鷺坂)に面して、鷺坂旧跡碑と鷺坂を詠んだ柿本人麻呂の歌碑が建てられている。その久世神社はまた万葉集に歌われている「久世社」だといわれる。さらに久世神社の境内は久世廃寺跡でもある。その東には郡衙跡の正道遺跡があり、その北東付近には正道廃寺があった。またそれら廃寺に遠からぬ位置の西には七重の塔を誇った平川廃寺があった。これら三つの廃寺は直径600メートルの範囲内にある。その北2キロに満たないところにも広野廃寺(宇治市大久保町)があった。いずれも飛鳥・白鳳期創建の寺院である。まさに宇治市南部を含めた城陽市東部丘陵地における古代寺院のオンパレードである。
それら廃寺はかつての栗隈県(くりくまのあがた)の地に位置しており、栗隈氏による建立とみなされている。栗隈県といえば、仁徳期・推古紀にみえる「栗隈大溝(おほうなて)」がまず思い起こされるであろう。仁徳期はまさに巨大古墳の時代で、城陽市〜宇治市南部にかけての久津川古墳群はよく知られている。その最大のものが車塚古墳であるが、先の平川廃寺のすぐ西に位置している。仁徳期の「大溝」は、大谷川改修(大谷川は地形からいえば、西へ流れるはずなのが、北へ流れている)であろうといわれる(平川廃寺発掘の際、大谷川の旧筋とみられる川筋の跡が発見されている)。その開発の成功により得た勢力・財力の賜物が車塚古墳であり、それは栗隈県主の墓であったと思われる。この栗隈県主の後裔が、奈良期以前以後において天皇家との婚姻関係もある有力豪族の栗隈氏とみられてきたが、車塚古墳(二重濠竪穴式)を中心とする久津川古墳群から栗隈県寺院群への移り変わりには100年以上の断絶があって、その間に継体天皇勢力下とみられる宇治二子塚古墳(二重濠横穴式)の登場がある。どうやらこの地にも政権交代があり、栗隈県主は没落したのではないかともいわれる。
それはさておき、前述正道遺跡の久世郡
衙の大領が栗隈氏であったろうことはまちがいない。その栗隈氏の名はもちろん地名からきている。栗隈県は、古代郷の那紀(宇治市伊勢田付近)・栗隈(宇治市大久保付近)・久世(城陽市北部)の範囲とみなされるが、では、その久世郡栗隈郷の栗隈の地名の由来はとなると、困惑する。栗隈氏は渡来系氏族であろうともいわれ、クリは高句麗から、クマは高麗(こま)からきているという説もある。だが、『新撰姓氏録』山城国諸蕃に黄文氏(氏族の一部は久世郡に居住)があり渡来人とわかるが、栗隈氏はみえない。
ところで、前記久世神社の祭神はヤマトタケルノミコトであるが、景行記にはその妃の一人にヤマシロノククマモリヒメがみえ、ククマは栗隈ともみられている。私はこの「ククマ」が「クリクマ」のはじめの形ではないかと思っている。久世郡久世郷の久世は、吉田金彦氏によれば、ク(陸地)・セ(背、微高地)で、「わずかに高くなった台地」という意味である(『京都の地名を歩く』)。これはもちろん木津川を背景にした地名である。同じくククマは、ク(陸地)・クマ(奥まったところ)であろう。西部の低湿地帯にたいして東部の台地を表現したものであるつまりは、クセもククマも同意義である。淀川を背景にした枚方(平・潟)・交野(潟・野)がこの類ではないかと思う。
そのククマがのちにクリクマに変化したのであろう。同じ久世郡の郷に埴栗(なぐり)・羽栗とクリのついた地名が多いが(『和名類聚抄』)、これとあわせて考察すればおもしろい結果が出るかもしれない。
●既報のとおり、京都地名研究会編『京都の地名 検証 風土・歴史・文化をよむ』が四月中には勉誠出版から刊行されます。定価は3150円(本体3000円+税)ですが、4月17日の第4回京都地名シンポジウムの会場では2600円でご購入いただけます。
どうかご購入をお願いするとともに、お知り合いの方に宣伝いただければ、幸いです。また、京都は地名研究の宝庫であるため、続刊の『続 京都の地名 検証』も出版の予定で、会員からの原稿をすでに募集している最中です。事務局にお問い合わせの上、奮ってご執筆ください。
☆吉田金彦氏『草枕と旅の源流を求めて』(勉誠出版 定価2400円)が出版されました。
☆真矢都著『京ノオバケ』(文春文庫)が出版されました。「真矢都」は本会常任理事の真下美弥子さんのペンネームです。
☆「全国地名研究者大会」(第24回)が5月21日(土)・22日(日)に行われる。
場所:川崎市国際交流センター
現在一段落はついたものの、日本中をゆるがし、禍根を残した平成の大合併と新市町名について話し合われる。
☆「海の熊野地名研究会」が設立され、2005年1月15日三重県熊野市役所において、設立総会が行われた。
事務局:三重県熊野市久生屋町594-7
三石氏 Tel:0597−89−3852
☆「近江民俗と地名研究会」が発足し、発足式が4月24日(日)午後1時半から草津市立町づくりセンターで行われる。
連絡先:大津歴史博物館事務局 和田氏 Tel:077−521-2001
【訃報】☆地名作家であり、本会顧問の澤潔先生が1月21日に逝去されました。93歳でした。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
☆本会会員の森嶋芳子さまがこの1月逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
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