「都藝泥布」 第13号 京都地名研究会の通信誌の第13号
  (読み「つぎねふ」は「山城」の枕詞) 
                   

                  (Tsuginefu) 京都地名研究会通信第13 平成1771

3回総会・大会開

4回大会開かる

 京都地名研究会は発足以来4年目を迎え、417日、龍谷大学大宮学舎において恒例の大会を開催した。今回からは大会の名称を『京都地名シンポジウム』とし、特に今回は「地名研究の方法」をテーマに掲げて行った。例年以上に多数の参加者があり、盛会であった。
午前中に理事会を行った後、13時からは総会を開き、2004年度の事業報告、決算、および2005年度の事業計画、予算がそれぞれ審議され、承認を受けた。大会および例会の開催、通信誌『都芸泥布』、研究誌『地名探究』の発行のほかに、20045年度に特記されることは、本会編で『京都地名 検証―風土・歴史・文化をよむ』が勉誠出版から発行されたことであり、さらに続編の編集が継続されていることである。
 シンポジウムに移って、金田章裕・京大副学長「小字地名成立の過程」、鏡味明克・愛知学院大学教授「吉田東伍・那珂通世に学ぶ歴史地名の継承」、さらに吉田金彦・本会代表理事「京都の地名研究について」の三つの講演があり、その後、三人の発表者が壇上に並んでの、会場との質疑応答が行われた。

 土地管理のための小字地名(金田氏)

金田氏によると、律令制の時代から文明開化の明治時代まで、小字が決められ、名が付けられたが、その主な目的は土地を管理するためであったという。律令制度下において、小字的な名称が「田」には付けられているのに、「畠」には付けられていない場合がある。それ(金田章裕氏)は、輸租地あるいは国家に地子を納める国家管理下の土地は、小字地名的な名称をつけて土地管理を行ったことを示している。また、土地表示様式には小字的な地名と条里呼称とが絡まりあって、時代的な変遷が見られるものの、「村」と「字」とは実態としてほぼ普遍的に存在したと、金田氏は指摘、「河内国志紀郡小山村小字図」あるいは現京都大学構内である「吉田村古図」を示しての説明には地名研究を志す者の蒙を啓くのに大いに価値があった。

吉田東伍・那珂通世が教えてくれること(鏡味氏)

 吉田東伍の『大日本地名辞書』の『汎論索引』には「行政区改正論」を付し、那珂通世の「行政区の名称境界に関する私論」を載せ、合せてそれを自らが論評した「行政区の名称に就きて」が収録されている。「平成の大合併」にともなって、新地名の混乱が見られる現在、歴史地名の正しい継承をめざした二人の先学の議論には、改めて耳を傾ける価値があると、鏡味氏はいう。那珂は小区画の郡の名を府県の名にするのは適当ではなく、むしろ旧国名を県名にする方が適当だとする。すなわち、京都府、大阪府、神奈川県、愛知県など、山城府、摂津府、相模県、(鏡味明克氏)
 尾張県であるべきだとする。それに対して、吉田東伍は那珂の所説に一定の評価を与えつつも、旧国名は消えても歴史としては残るといい、現在の行政区画に合せて国の境界を動かすことの非をいう。一部で「飛騨」や「丹後」など、旧国名が疑義の残る形で復活している現在、再読すべき説といえる。「近時の新発明なる、郡名や村名の、切り離したる各一字を、重ね合はして、新語を作ること」を戒めているのは、心すべきであろう。

 弟国宮趾は赤根天神社か(吉田氏)

本会代表理事の吉田氏は、本会が編集した『京都の地名 検証』を紹介、京都における地名研究の意義について述べた。また京都に「平安京」「長岡京」「恭仁京」の三つの都があり、「菟道宮」「筒城宮」「弟国宮」の三つの宮があったことは、他に例のない誇るべき文化遺産であるものの、そのすべての位置が確定されているわけではないとし、継体天皇の弟国宮はどこにあったか、仮説を述べた。「アカネ」には「弟である」という意味があり、本来、皇統を継ぐべき倭彦王に義理立てして、その倭彦王が住んでいた丹波を「エクニ(兄国)」として、継体はみずからの国をへりくだって「オトクニ(弟国)」と呼んだのだと考えられる。長岡京市の今里、すなわち「ふるさと(古京)」に対する「いまさと(今京)」の「アカネ(弟)天神」こそが弟国宮にふさわしい場所だと、氏は指摘した。

13回京都地名フォーラム2005724日(日)午後2時〜5
場所:龍谷大学大宮学舎
(京都市南区七条大宮・西本願寺隣)

(会員)無料(非会員資料代)300どなたでも参加できます。入会歓迎。
【パネル討論】
T「京都の地名を検証する」
―『京都の地名 検証』を出版して―
明川忠夫・糸井通浩・清水弘・忠住佳織・綱本逸雄
 (司会)吉田金彦
【講演:源平ゆかりの地名】
U「義経伝説と京の地名」
    山嵜泰正氏
V「平家物語と地名」
    糸井通浩氏

【山嵜氏発表要旨】

 京の牛若丸伝承は各所に点在する。先ず牛若丸誕生地として北区紫竹牛若町、父・源義朝の別業地で、母の常盤が牛若丸誕生の際に使用した産湯の井戸と彼の胞衣塚も傍に有る。彼が誕生した1159年、父・義朝は平治の乱で敗北し、翌年の正月殺された。母は再婚、牛若は7歳で鞍馬山に送られた。鞍馬山には牛若が稽古した天狗杉、持念仏、背比べ石、兵法石、硯石、義経息つぎ水、義経堂などが揃う。天狗の話は古い書物には出てこず、江戸時代以降に付加された。『義経記』では、16歳の牛若は京と奥州を往来する金売り吉次に誘われて鞍馬を下山した。「蹴上」は、民話では牛若が金売り吉次とともにここに来たとき、平家の侍が水溜りの水を牛若丸に蹴り上げた、それでついた地名だという。奥州平泉で藤原秀衡に出会った義経は京に戻る。弁慶との出会いは有名な五条大橋だが、『義経記』では二人の出会いは五条天神(松原通西洞院)や清水寺であった。謡曲や長唄で「橋弁慶」が有名になり五条大橋に定着する。橋弁慶では「千人斬り」の牛若丸の話が今は「太刀千本」を集める弁慶の話に変形している。義経には謎が多い。『吾妻鑑』に治承四年(1180)、兄頼朝の挙兵に義経が奥州から馳せ参じて黄瀬川兄弟対面のころ、『玉葉』では近江源氏山本義経が琵琶湖で活躍した。つまり、二人の義経がいたことになる。平家を壇ノ浦で滅亡させて後、義経は京の「堀川六条屋形」で頼朝の刺客の急襲を受ける。義経の愛人の静御前は長刀で応戦したが、彼女の生誕地は淡路島の「静」が有名だが、京都府網野町磯にもあり、静神社がある。

(山嵜氏プロフィール)

1936年 京都市生まれ。立命館大学大学院法学修士。京都府立高校・京都教育大学付属高校教官(定年退職)。京都教育大学・京都文教大学非常勤講師を経て、現在、説話伝承学会会員、京都地名研究会常任理事。世界鬼学会会員。京都リビング新聞カルチュアー「歴史・説話」講師。KBS京都「きらめきSTORY」監修。主著『京都府の不思議事典』(共著・新人物往来社)『京・寺町通りの伝承を歩く』『小町の謎』(ふたば書房)『行事の由来』(監修・講談社)

【糸井氏発表要旨】

『平家物語』は、主として源平の合戦を描いたものであるから、物語の舞台は、ほとんど京(都)の周辺か、京を離れたところであった。京の地名となると、平氏・源氏の、特に前者の邸宅や兵の屯所となったところか、または主上・上皇の御所・院などが主である。それでもいくつか注目すべき地名も出てくる。それらがいったいどこのことか、「鹿ケ谷」でなく「鹿の谷」なのは何故か、「六条」(『源氏物語』でも単に「六条わたりの御忍びありき」などと出てくる)「三条」とだけでどこと分かったのか、などについて考えてみる。(依った本文は「百二十句本」系である。)

(糸井氏プロフィール)

龍谷大学教授 1938年 京都市に生まれ、丹後で育つ。京都大学文学部(国語国文学専攻)卒業。主な共著に『後拾遺和歌集総索引』(清文堂)、『物語の方法―語りの意味論』(世界思想社)、『国語教育を学ぶ人のために』(同)『日本地名学を学ぶ人のために』(同)など。

【地名随想】

「和泉式部町」  明川忠夫

 和泉、泉という地名は全国に多いし、和泉式部伝承との関わりも無視できない。しかし、ずばり、和泉式部町という地名はほとんどないだろう。右京区双ヶ丘の南、御室川の黒橋を西南に渡ると和泉式部町がある。昔、ここに和泉式部塚があり、それが町名の由来となっている。和泉式部町となったのは昭和6年からで、かつては字和泉式部と呼ばれていた。

 『山州名跡志』(1702)には、「和泉式部ノ塚右、槲ノ傍ニ在リ、今纔ニ存ス。由来不詳」と式部塚が記されている。式部塚は「槲傍」とあるので、槲(かしわ)の木の傍にあったらしい。槲の木は法妙寺円覚上人の塔の旧跡に植えられていたことが『山城名跡巡行志』(1754)に見えるので、式部塚は法妙寺の境内にあったようだ。
 円覚上人(12231311)は融通念仏宗法妙寺の開祖で、傍にある法金剛院、更に壬生の地蔵院の中興の祖でもある。円覚上人は法妙寺・法金剛院・地蔵院などで地蔵能化、念仏勧進十万をめざして活躍した人で、踊躍念仏・壬生狂言の創始者であった。
この式部塚はどうして生れたのか。そのヒントになるのは次の記述である。
「伊佐良井 太秦村ニ在リ。深ノ事ハ知レザル和歌有リ」(『扶桑京華志』1665年)
 太秦村に「伊佐良井」という井戸があり、その泉のほとりで和泉式部伝説を語る比丘尼がいたと思われる。お寺の再興の勧進元円覚上人は、踊躍念仏による唱導で人々を集めた。半僧半俗の聖たちが勧進のため協力し、唱導のための比丘尼も定住するようになったと思われる。比丘尼たちはどんな唱導をしていたのか。
法妙寺内の式部塚に興味を持った誠心院の住職静居がいた。京極にある誠心院は別名和泉式部寺というべき寺で式部の墓がある。住職として式部塚に興味をもったのは当然であった。その調査記録『捜式部古蹟記』(1848)には次のように書かれている。
「和泉式部塚雙丘法妙寺址ニ在リ。一塚ニ至ル。(中略)方十歩タルベシ。是ニ比スト曰フ。(中略)中古、小祠有リ、瓦ヲ以テ屋ヲ葺ク。今、祠廃レテ余瓦薨ル。山茶ニ絵馬有リテ懸ク。蓋、病者祈祷スレバ、験有リ、遠近ノ群、詣ヅト云フ。塚東側、丘南一町許、(中略)字ヲ和泉式部ト曰フ」十歩四方ほどの式部塚の傍に、かつて瓦葺きの小祠の跡があった。そこに病気祈祷の人が遠近からたくさん御参りし、小屋跡の傍の山茶の木に絵馬を懸けて祈願している。このことから式部を名乗り語っていた人は、病気を治していたことが読み取れる。式部没後も、その霊験を祈って庶民がお詣りしたものと思われる。式部塚が建てられ、字和泉式部が付いた所以である。まとめるならば、井戸(泉)→和泉式部を語る比丘尼→和泉式部塚→字和泉式部→和泉式部町という経緯が考えられよう。今、法妙寺も和泉式部塚もない。どちらもその跡は未詳である。残ったのは町名ばかりである。

☆「全国地名研究者大会」開かる

 52122の両日、川崎市の国際交流センターにおいて「第24回全国地名研究者大会」が開かれ、全国から120名の研究者が集まり、活発な意見交換が行われた。京都からも本研究会の吉田金彦代表理事が参加して、京都での活動について報告した。「平成の大合併」にともなう新地名の混乱について、大会参加者の総意をまとめる形で声明が出されているので、以下に掲げる。

「地名は、今危機にさらされている。

 目下進行中の平成の市町村大合併において、耳目を疑うような新地名が続出している。それら新地名は、地域の歴史的伝統を踏まえたものでは全くない。それどころか、いたずらに新奇を競い、誇大な地名をもてあそび、地域住民の生活感覚を反映せず、地名を観光誘致の広告塔に役立てようとする浅はかな魂胆が見え透いている。
  たとえば「奥州市」は、岩手県の一地方都市の合併であるにもかかわらず、県の境域を更に越えた広大な奥羽地方の名前をとっている。
 また鳥取県の「南部町」は、たんに米子市の南に位置するというだけの命名である。
 「四国中央市」にいたっては、四国各県庁所在地から車で一時間程度の等距離にあるというだけの理由から採択された。
 このほか、世論の烈しい反対にあって白紙に還元された地名も少なくない。
 いわく「太平洋市」、いわく「ひらなみ市」、いわく「南セントレア市」、いわく「白神市」等々。
 このような状況は、地名が日本の伝統文化の基本となるべき財産であることをわきまえず、ただ一部の者たちによる勝手きわまる恣意的な行為であると断じてはばからない。
 この侭で推移すれば、日本人の精神の深部を侵犯し、破壊することは目に見えている。
 ここで私たちは、川崎市でおこなわれた平成17年度の、第24回全国地名研究者大会の名において、これまでの当事者まかせの粗雑で、不合理な審議を反省し、それにかわる歴史に造詣の深い有識者による、政府の地名審議会機関の設立を強く望むものである。

   平成17522
    第24回全国地名研究者大会 代表  谷川 健一 」

☆「近江民俗と地名研究会」設立さる。

京都とお隣の滋賀に地名研究会が設立されました。その設立趣意書の一部を紹介します。
 「近江には古くからの歴史や文化が今も息づいています。その代表的なものに民俗文化があります。曳山祭りのように広く知られ、今もまちづくりの格となっているものもあれば、山の神や野の神のように、小さなコミュニティでひっそりと守られているものもあり、「大将軍」のように早くから民俗学者が注目してきた信仰が、地名にその痕跡を残している例も見られます。
 これらの民俗文化の一部は保護や記録の措置がなされているとはいえ、近江では、むしろあまりに豊かであり、あたりまえのものとして伝えられてきたために、その価値が十分認識されることなく、社会の変化のなかで急速に変容し、あるいは失われる危機に直面しています。このことは地名の置かれている状況とも共通するところがあるように感じられます」
 隣の県の研究会の発展にエールを送りたいと思います。

【連絡先】米田実氏 e-mail: m_xsara@mac.com

☆『京都の地名 検証』出版さる

 本研究会の会員による『京都の地名 検証』(勉誠出版 3150円)が
2005年
4月に刊行され、幸いなことに売れ行きは好調のようです。書店で
平積みにされているのをご覧になった方もいるかと思われます。

出版物
本の詳
細、京都地名研究会編

『京都の地名検証 風土・歴史・文化をよむ

  
詳細クリック


 勉誠出版http://www.bensey.co.jp/


■続刊の『続 京都の地名 検証』も来年度出版の予定です。






『京都新聞』に書評が出ましたので、以下に転載します。

「風土の中からいわれを探る  京都の地名 検証
 「太秦」「今出川」「粟田口」―。知っていそうで、確かなところを問われると言葉に詰まってしまう、地名のいわれ。そんな、京都の地名発生の源を探求する取り組みを続けている京都地名研究会が、これまでの研究成果をまとめた「京都の地名 検証」を刊行した。
 同研究会20024月に発足、同時に研究成果をさまざまな場で発信、京都新聞では同年8月から10回、朝刊文化面に「京都地名探訪」を連載、続いて、036月から29回、「京都地名散策」のタイトルで同じ文化面を飾った。今回の出版では、これら新聞掲載分をベースに、新たに書き下ろしたものを加えた計124編を収めている。
 対象とする地名は、やはり京都市内が主となるが、山城、乙訓、丹後、さらには滋賀県まで及んで、各地域の風土、歴史、文化を読む手がかりを与えてくれる。(後略)

【寄贈図書】

『長崎県の小字地名総覧―主な小字地図と小字地名―』(19911115日 著者草野正一発行・絵入り558ページ 横特大本)

上記の図書を受贈いたしました。ありがとうございました。著者は地理学者、1962年広島大学教育学部卒業。現在、地形と地名を調査中で、論文あり。昭和577月の長崎大水害による危険地域や崩壊地名や昭和37年公布の住居表示に関する法律の施行による小字地名の消失による危機を感じた著者が長崎県下の全市町村の小字地名を収集し、地図化した労作。本来、政府機関が編纂すべき基本的重要地名研究の資料である。

【新刊案内】

 本会顧問の池田末則氏が先の『地名研究資料集』全5巻に続き、『近代地名研究資料集』全6巻を編集、クレス出版から出版される。内容は『日本歴史及地理要覧』(第1巻)『帝国地名大辞典 上・下』(第2,3巻)『大日本市町村案内』(第4巻)『アイヌ語より見たる地名研究・アイヌ語より見たる地名新研究』(第5巻)『町村名の研究』(第6巻)。第4巻までは既に刊行を終え、第5,6巻は825日に刊行される。尚、揃定価:107,000円。

会員募集!!お問い合わせは下記事務局へ○京都地名研究会事務局


「都藝泥布」 第1号へ  「都藝泥布」 第12号へ 「都藝泥布」 第14号   



     
広報係 小泉芳孝に、お寄せ下さい。
ここに掲載の各ページの写真および記事の無断転載を禁じます。
◇著作権は京都地名研究会と素材提供者に帰属します。
  copyright(C) 2002 chimai kenkyukai. All rights reserved.