「都藝泥布」 第11号 京都地名研究会の通信誌の第11号 (読み「つぎねふ」は「山城」の枕詞) |
(Tsuginefu)京都地名研究会通信11号 平成17年1月1日
第9回例会報告
【第10回例会報告】
9月26日、龍谷大学大宮学舎において、第10回例会があり、渡部正理氏「『この蟹や』の歌の地名と和邇氏」、山口均氏「私の地名論」の二つの研究発表が行われた。
ミシマは大阪の三島か(渡部氏)
渡部氏は有名な「この蟹や」の古事記歌謡について、敦賀から旅を続けてきた蟹が「いちじ島 三島にとき」とある、その三島は大阪の三島なのではないかという。(渡部正理氏)
契沖が越前であるといい、宣長が近江の琵琶湖の島々の一つであると説いたのに対する新説といっていいが、氏はまた、「うしろでは 小楯ろかも」と続く詞の「小楯(をだて)」をも地名として説明する。これら敦賀の蟹の道行きは和邇氏の分布と重なり、また継体天皇が越前から琵琶湖岸を経て樟葉に都することになった経路とも重なるのだとも、渡部氏はいう。淀川流域の重要性の指摘は興味深く、傾聴すべき点があったが、さらに、氏は日本語の語構成について、独自の説を展開。まずは一音節の語「ト(処)」を想定して、「トク(着く)」「トコ(床)」「トキ(時)」「トグ(遂ぐ)」などの語が派生したと考える。ある程度はそれで説明の付く語もあろうが、しかし、「履く」「掃く」「吐く」、さらには「果つ」「生ゆ」「腫ル」「剥ぐ」なども唯一の「ハ」から派生するというにいたっては、後の質疑で疑義も出された。
「民意」は信頼できるか(山口氏)
わざわざ名古屋から参加いただいた山口氏は、現在進行しつつある市町村合併による新地名について一つ一つを分析、その傾向について述べ、地名をつけるに当たってのありうべき手続きについて言及された。
現在進行中の新しい市町村の命名には、一様に「民意」の尊重なるものが唱えられているものの、そのために「南アルプス市」や「四国中央市」などという歴史性、文化性を欠いた地名が誕生、さらには「さいたま市」や「いなべ市」などの平仮名地名までが生れた。逆に「民意」によって行き過ぎた新地名が白紙に戻された例もないわけではないが、多くは文化意識が希薄で、抽象的で、感覚に訴える地名を喜ぶ傾向があるのだという。そうした現代人の地名意識の背景にあるものを、「地名は単なる符号」という裁判の判決あるいは民衆の流行への迎合など、さまざまに分析した後(山口均氏)で、現在は単なる郷土史の「好事家」のものとしか考えられていない「地名研究」が、これから社会に果たすべき重大な役割についての提言、あるいは叱咤激励をもって、山口氏は発表をしめくくった。
【第11回例会報告】
四方綾部市長も出席
11月28日、綾部市中央公民館において、第11回例会を行い、高橋聰子氏「舞鶴の『余部(あまるべ)』は『海人部(あまべ)』か」、川端二三三郎氏「綾部の地名あれこれ」の二つの発表があった。例年、丹後の宮津で行っていた秋の例会だが、今回は綾部史談会の全面的な協力もあって、初めての丹波での開催であった。本研究会の京都府中部地域への普及の足がかりを築いた意義のある例会であったといえよう。四方八洲男綾部市長もわざわざかけつけて、ご挨拶をいただいた。四方市長は繊維メーカーの「グンゼ」が今は綾部市の旧何鹿(いかるが)郡の産業振興のための「郡是」から生れた話などを紹介、行政に携わる立場から「地名」の意義に触れた。市町村合併が行政上避けることができないものとすれば、行政担当者の姿勢をうかがうのは意義があった。(四方八洲男綾部市長)
「余戸」の通説を疑う
(高橋氏)
「余戸(あまるべ・あまりべ)」は、大化の改新後の律令制度で50戸を「里」とした際、それに満たなかった小集落をいうとするのが通説だが、日本全国の「余戸」がすべてそれで説明できるのか、高橋氏は疑義を呈する。舞鶴の
余戸はむしろ「海人」とのつながりが深く、凡海(おふしあま)郷は海人たちの住み着いたところであった。
沖合いの冠島、別名「老島(オシマ)」 (高橋聰子氏)
は「オフシアマ」の約まった形であり、そこに鎮座する老人島神社は海部の祖神を祭っているとされる。現在でも、6月1日、漁師たちが船で競って冠島に参り、幟を奉納する「雄島まいり」の神事が行われるが、それら海との深いつながりを考えた上で、舞鶴の余戸はむしろ「海人戸」なのではないかと、高橋氏はいう。
地名でたどる歴史
(川端氏)
綾部史談会の副会長を務め、中丹地域の郷土史に詳しい川端氏は、古代から明治に至る地域の特徴的な地名をあげて、この地域の歴史をたどった。「三宅」「私市」「漢部」などの古代の部の設置、あるいは坪や反など条里制を示す地名があり、そして中世に入って、本庄、新庄などの荘園制を示すもの、あるいは土居、舘、九文田など、荘官の存在を示すものもある。次郎丸、貞遠名というのは名主の名であり、カゴ迫、カジヤなどは、紙の製造のために「コウゾ」の栽培が行われたことを示している。また「茶園」という地名もあり、宇治の茶屋として江戸時代に全盛を誇った上林家は、 (川端二三三郎氏)
明智氏に追われるまではこの地域に居住したのだという。古屋敷、屋敷町など江戸時代の山家藩の陣屋の存在を示す地名、万石割、千石割などという村の姿を示す地名など、川端氏は豊富な知識を縦横に披露されて、地名研究における郷土史家の役割の大きさを改めて痛感させられた。
【第12回例会】 1月30日(日)午後2時〜5時 於 城陽市東部コミュニティセンター |
【第12回例会会場付近略地図】
【生谷陽之助氏発表要旨】
日本の旧諸国でそれぞれの筆頭神社であった「一宮」を11年かけて巡歴した。五畿七道の旧諸国は大化の改新後、律令制度のもと国郡里制度として国家の行政単位として確立した。その国名は国々の国土、風土、地理、地形、地勢や、その土地の衣食等に由来するものが多いこの国号地名は古代からの「大和の国名地名」から現代の国名市町村、例えば伊勢市、摂津市、山城町、丹波町などがあり、多様である。
一宮の地名、またそれに続く二宮、三宮などの地名は全国各地に散在する。一宮、二宮、三宮などは諸国単位だけでなく、郡、荘園、郷村にもあった。その具体的な事例として丹波国船井郡山内荘園・天田郡荘園の一宮神社などを取り上げて見たい。
近年、市町村合併促進により、復古回帰なのか、飛騨、佐渡、壹岐など、旧諸国名の市や町の誕生が顕著である。一方、熊本県阿蘇郡一の宮町等、合併により、その名が消滅する。こういう問題にも触れて見たい。
[生谷氏プロフィール]1935年2月京都市生まれ。57年3月同志社大学経済学部卒、同年日本経済新聞社入社(大阪)。日本経済新聞社関連会社社長、役員を歴任して、97年3月退任。日本経済新聞社社友・京滋学生剣道連盟会長・同志社大学剣友会名誉会長・同志社スポーツユニオン顧問・全国一の宮巡拝会会員。
[芝野氏プロフィール]加茂町教育委員会文化振興課勤務。現在、恭仁京発掘調査に従事。
【地名随想】
京の牛若町 山嵜泰正
京都市北区紫竹(しちく)に「牛若町」という地名がある。先日、その牛若町を歩いた。
『義経記』では、牛若丸は「平治元年乙卯紫竹ニテ生ル云々」とある。平治元年は1159年、義経は義朝の九男であるため、幼名牛若丸・九郎である。この年の2月、42才の平清盛は白河千体阿弥陀堂を造営するが、4月には平治の乱が勃発する。
保元の乱でともに戦功のあった平清盛と源義朝との間に勢力争いが起こり、戦乱に発展する。それが平治の乱であるが、清盛は後白河上皇の寵臣であった藤原通憲(信西)と結んで権勢を誇り、義朝を圧倒した。義朝は通憲の対立者である藤原信頼と組んで、清盛の熊野参詣中に挙兵し、清盛の打倒を謀った。義朝は後白河上皇を幽閉し、通憲の殺害には成功したものの、急遽、清盛が帰京、義朝の軍勢を圧倒して勝利をおさめた。信頼は清盛方に捕まって六条河原で斬殺され、敗走した義朝は尾張で殺害される。つまり、牛若丸が誕生した年というのは、平治の乱が起こり、そこで敗れた父の義朝が殺害された年でもあって、牛若丸は実の父親の顔を知らなかったのである。
都の東北の八瀬には、平治の乱で敗走する源義朝・頼朝父子がその霊験で救われたという磯観音・崖観音、そして駒飛石などが点在している。
『山州名跡志』によると、紫竹牛若町に牛若丸の袍衣を納めた弁財天社や母の常盤が住んだ常盤第があり、慶長年間には、「大源」すなわち源義朝の別荘の伝承地に、蜂須賀家によって「大源庵」という寺が創建されたという。開基は大徳寺48世の玉室宗柏であった。だが、その大源庵は廃絶して、今は「牛若丸の誕生井」の石碑が残るのみである。
『名所都鳥』には次のようにある。
「産湯水、京の北紫竹村、大徳寺の末寺、大源庵の方丈の庭に有、むかし源の義朝この所に住給ひ、すなはち常盤御前、爰にて牛若を産み、此水を汲でうぶ湯とするゆへの名也。」
「牛若町」は義経母子の伝承地名であり、大徳寺に通じる「牛若通り」は南北に走っている。
【近刊紹介】
『日本地名学を学ぶ人のために』刊行さる
本会代表者はじめ会員も含めて地名学研究者30名による論文集が世界思想社から刊行された。『京都新聞』の書評を採録してみる。
編者の両氏は、一昨年発足した『京都地名研究会』の中心メンバー。最近、自治体の合併により新たな地名が次々誕生しているが、その土地ならではの由緒ある地名が消える一方で、安易な命名が横行する現状に危機感を募らせ、『地名学』の発信力強化を訴えている。そんな編者らの熱い思いが、今回の出版につながった。
前五章。序章の『地名学への誘い』から『地名の成り立ち』『地名学の方法』『地名に関する問題と課題』と続き、最終章で、地名研究の実践でもたらされる発見や地名保存の意義など、『地名学の役割』について縦横に語られる。巻末には、先人や現役の気鋭の研究者が記した基本文献の一覧もあり、地名研究に一歩を踏み出すのに格好の書となっている。2415円。」(『京都新聞』2004年11月5日)
永田良茂著『古代人の心で山名を読む』(友月書房)近刊予定
本会会員の永田良茂氏の第2作の販売予告が事務局あてに届いています。氏は毎回欠かさず例会に出席、つねにアイヌ語=縄文語、すなわち古代日本語の立場からの質疑を繰り返されますが、氏の立場からの地名研究の深まりが期待されます。
第4回総会・大会の日程・講師決まる! 2005年4月17日(日) |
【『地名探究』3号の原稿募集】
本研究会の会報『地名探究』も第3号の発刊に向けて取り組みを始めています。研究の成果を活字の形で残すことに意味があるものと思われます。ふるってご投稿ください。
原稿の投稿先は、
〒617-0002京都府向日市寺戸町二枚田12-46
綱本逸雄方 京都地名研究会事務局宛
にお願いします。投稿される方は次の要領をご参照ください。
【『地名探究』原稿応募要領】 1 締め切り 各年度1月末日とする。 2 応募資格 顧問 講演者 発表者 会員 本研究会が執筆依頼した者(例会発表者は旧稿推敲の上、再提出のこと) 3 内容は京都地名研究会会則の趣旨に沿ったものとする。 4 原稿A4サイズ1頁(40×40行、横書き)とする。論文(6〜10頁)、研究ノート(4〜6頁)、随筆(2頁) 5 完全原稿とする。応募原本1点および査読用2点を同封する。採用の如何を問わず、応募原稿類は写真・図版をも含めて一切返却しない。 6 写真・図版、手書き原稿の場合は応分の経費負担をお願いすることがある。 7 採択・掲載の有無については各年度2月末日頃に連絡する。各年度3月31日発行予定。 8 執筆に関する留意事項 |
(以上の「要領」に加えて、次の点についても考慮の上で、原稿の作成をお願いします。
1 原稿はできるだけパソコンで作成する。
2 原稿作成に当たっては既刊の『地名探究』の大きさやページ番号の位置に合せる。
3 目いっぱい書かず、できるだけ余白をもたせる。)
【編集後記】『京都新聞』の「京都探訪」の連載を基にして会員の方々にも執筆いただいたエッセーを加えたものが、近々『京都地名あちこち』のタイトルで、勉誠出版から発行されます。2005年度には例会を利用して、「合評会」のようなものを開く企画が考えられています。今後も、本研究会をベースにさまざまな書物が出されればいいと思います。例年に輪をかけての暖冬で、あわただき中にも心身ともに引き締まる年の瀬らしい気持ちにもなれないまま、通信の1月号の編集を終えました。皆さんにはよいお年をお迎えください。
至急、会費納入を!! 本研究会は皆さんが納入された会費によって運営されています。必ずしも潤沢な予算とはいえませんので、会費未納の方は至急、納入のほどをお願いします。 郵便振替口座番号:00910-1-160705 加入者名:京都地名研究会 会員募集!! |
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