「都藝泥布」 第2号 京都地名研究会の通信誌の第2号
  (読み「つぎねふ」は「山城」の枕詞)                    

                  
第一回例会報告

728日(日)、「京都地名研究会」の第一回例会がキャンパスプラザ京都において行われた。428日の設立総会を受けて、会員たちそれぞれが研究を深め、成果を報告する目的で初年度には4回開催を予定している、その最初の会合であった。出席者は会員の40名に加えて、さらに当日新規に会員登録された6名があり、まずまずの滑り出しであった。トップ・バッターとして、「山城資料館友の会」の古川章氏が「ボケとアチラと――京田辺市の小字調べ」と題して発表され、続いて龍谷大学の小寺慶昭氏が「綱敷天満宮と地名分布」と題して発表、活発な質疑応答も行われた。

 「谷から台へ
―歴史の抹殺」(古川氏)
古川氏によると、京田辺市には580小字名があった。その小高い丘の連なる地形からいって、約79箇所もの「谷」のつく地名があり、以下、62箇所の「田」、26箇所の「原」、そして、25箇所の「山」、16箇所の「島」と続く。また、古代の条里制の土地区画の名残りを示す、「五ノ坪」、「一ノ坪」といった歴史的な地名もあれば、「狼谷」、「狐川」、あるいは「鬼灯」、「桜田」といった動植物名を冠した地名もある。

あるいは「越前(こしまえ)」という地名があるが、それは継体天皇が越前から入って、王位を継いだことと関係するのではないか、という。地名にはそれぞれに由緒があり、言い伝えもあるのだが、しかし、最近は看過してはならない意図から、伝統のある地名を変更する動きが現れている。たとえば、「ボケ谷」、「アチラ谷」という小字名があった。しかし、そこに工場をもつ企業から、その地名ではイメージが悪いので変更して欲しいとの要望があって、「甘南備台」と新たに改称されることになった。

バブル期以降、日本列島は不動産業者が乱開発して、山を削り、谷を埋めて、宅地を造成した。そして、少しでも買い手たちを呼び込もうと、現代的な明るいイメージの名称をつける。たとえば、「光台」であったり、「夢が丘」であったりである。国土が変容し、地名が変化するのは、時代の趨勢でもあり、しかたのない面もあるが、その歴史的な変遷をしっかりと書きとめておく義務があるのではないかと、古川氏はしめくくられた。

 「道真の九州下向
そのルートは?」(小寺氏)
 淀競馬場の近く、伏見区淀水垂町に綱曳天満宮神社がある。「綱曳」とはあまり耳にしない名前だが、「綱敷」天満宮なら、近畿から西日本にかけて若干数あって、その転訛だと考えられる。それら、綱敷天満宮に伝わる伝説はほぼ共通している。つまり、菅原道真が太宰府におもむく途中、激しい風雨に出遭い急遽近くの港に避難する。
 敷き物もなく、その土地の有力者や近辺の人たちが船の大綱を巻いて、円座を作り、そこに道真を休ませたというものである。淀の「綱曳」天満宮は、都から長岡京を通って陸路をやって来た道真が乗船した港に当たる地点にあったのではないかと思われる。そして、綱敷天満宮の所在地をたどっていけば、道真は船で太宰府に向かったルートをたどることができ、それは淀川を下り、神戸市へ到り、そこから、瀬戸内海を航海して今治へ行き、さらに福岡県築上郡へ着いたということになる。伝説では、その時々に暴風雨に遭い、急遽寄航した先々で「綱敷」に座らせられたことになるが、それはこの左遷の旅が難儀を極めたものであったということによって、道真の運命の悲劇性を強調し、その怨霊伝説の土壌を用意することになったのではないか。

会場の質疑
 この小寺氏の発表の後、会場から京都の下京にある「綱敷・行衛天満宮」について地元の方から言い伝えが紹介され、また吉田代表理事から、淀の水垂がかつての長岡京の端に当たり、人面を描いた土器が多数廃棄されていたなど考古学的に興味深い発見があったとコメントがあり、また、糸井理事から、綱敷の「綱」そのものに呪力を認めた古代的な信仰があったのではないかといった指摘がなされた。

【投稿】
「弓矢町のこと」
            新井寛
 松原通大和大路東入に「弓矢町」があります。今年、八坂神社の修復記念で弓矢町から鎧兜の出品があり、展覧会を見学しました。普段は町内で飾られています。
 隣接地には小松町、三盛町、門脇町、池殿町、多門町などがあり、さながら平家一族が跋扈した六波羅の夢の址です。清水坂に近く、平安朝の初めから唐風の弓弦や弓箭などを製作し、山門の兵器廠的役割をにない、さらには祇園感神院の威光のもとに警察権をも掌握した時代もあったようです。江戸時代以降は衰微しましたが、祇園会の神輿渡御の警護役を勤めました。維新の混乱で中断されたものの、明治5年から昭和49年までの盛夏のまっただ中、鎧兜に身を固めて神幸に参加したのです。
 町の誇りを持ち続けた弓矢町も先住者がなくなり、町会所での居祭りとなっているのは寂しいことです。
 京都の地名は正に史跡表示の石碑以上の歴史を語っています。京都の地名は郵便局泣かせといわれるが、そのようなことはありません。市中においては面する通りの名を先に交叉する通りの名を次に上ル・下ル・東入・西入で表現することになります。たとえば、烏丸通四条上ル筝町烏丸通四条下る水銀屋町四条通烏丸東入長刀鉾町四条通烏丸西入函谷鋒町という具合です。北行を上ルというのは御所の紫宸殿の後に北極星が輝いているからです。      

【例会のご案内】

21020日(日)午後2時〜5
  京都キャンパスプラザ
@     川村平和氏
「深草の『くさ』がつく地名について」
A     永田良茂氏
「京都を中心にした私の縄文地名解釈」
3128日(日)午後2時
  宮津市・歴史の館
@       杉本利一氏
「かくて地名は抹殺された」
A       糸井昭氏
「『遊』地名について」
B       糸井通浩氏
未定

4回平成15126日(日)
  龍谷大学大宮学舎
@       山嵜泰正氏
「京の上人町・木食応其」
A       未定
(『都芸泥布』創刊号において、第3回例会の日時を誤っていました。ここに訂正するとともにお詫びいたします。)

【第2回例会発表要旨】
川村平和氏

 京の深草(ふかくさ)はなぜ「くさ」がつく地名なのか。同じ「くさ」のつく地名が全国に散在することを例に、その語源を探る。今回は、兵庫県内の私の住んでいる近隣の地で「くさ」のつく地名、八千草(やちぐさ)・千種(ちぐさ)・神積(このくさ)を例にあげて、その地名語源を考察する。この考察を通して、日本人の源流に遡れるヒントを得ることができるのではないかと考えている。谷川健一氏の説も俎上に載せつつ、よりグローバルな見解を開陳したい。

(川村氏プロフィール――1951年兵庫県生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。兵庫県の高校で国語科の教鞭を執る。日本語語源研究会会員として「長谷の地名語源考」、「明石の語源考」など多数の論考を『語源研究』に発表。詩集『光の糸』を刊行している。)

永田良茂氏
 システムエンジニアとして、四十年近くを過ごしました。仕事で各地を廻る機械と趣味として古代史書籍を漁るチャンスに恵まれ、地名の世界に入り込んでしまいました。鹿児島県出身の小生にとってアイヌ語と鹿児島弁が非常に身近で、アイヌ・縄文語の立場で地名を見るとこのような世界が広がるという立場から、具体的な京都の縄文地名に照準を当て、各地に残っている同じ地名と比較しながら、言葉の意味と地形とを、パソコンとプロジェクターを使い絵解きし示します。日本語とアイヌ語比較を行い、古代人の考え方を示し、京都地名としては本研究会のホームページから皆様のご投稿も紹介します。

(永田氏プロフィール――京都府乙訓郡の生まれだが、2歳からは鹿児島県国分市で育つ。大阪大学基礎工学部卒業後、三菱電機に勤務し、今年6月に退職した。在職中に『古代人の心で地名を読む』を執筆、刊行した。)

【地名随想】
「京田辺市の『多々羅』地名
            綱本逸雄

 第1回例会で京田辺市の地名「多々羅」について、古川章氏が紹介され、参加者の関心を呼んだ。
 当地は、古代に渡来人が居住したところと伝える。『新撰姓氏録』山城国諸蕃「任那 多々良公」に「御間名国王(みまなのこにしき)、爾利久牟王の後なり、天国排開広庭天皇(欽明)の御世投化(まい)りて、金の多々利、金の乎居(をけ)等を献りき。天皇誉めたまひて、多々良公の姓を賜ひき」とある。多々利を献じて多々羅姓を下賜され、居住地名が多々羅となったとされる。また『日本書紀』仁徳天皇条で、皇后磐之媛が生涯過ごした筒木宮址(異説もある)、『古事記』では磐之媛が身を寄せた筒木の韓人奴理能美の家があったとする伝承地でもある。
 多々羅の由来については、金の多々利の解釈をめぐって、従来から金属地名説と機織地名説とがある。金属説では、タタリは蹈鞴のことで、足で踏んで風を送るフイゴ(鞴)か、蹈鞴製鉄つまり砂鉄を集めて鉄を溶かした溶鉱炉をさし、製鉄工業地だったとする。「田辺」もタタラベ(蹈鞴部)→タタナベ→タナベの転訛だという(『けいはんな風土記』)。ただ、地質から見ると、「多々羅」をふくむ京阪奈丘陵は大阪層群といい、礫・砂・シルト・粘土の互層からなり、約300万年前から数十万年前に川や湖だった所に堆積した地層である。したがって砂鉄や鉄鉱床は存在しないというのが地質研究者の考えである。金属地名にこだわるとすれば考古遺物・遺跡の存在が決め手になろう。
 これに対して機織説では、タタリは紡績の絡 (たたり)で、糸がもつれない様に操る道具をさす。絡 は『類聚名義抄』『和名抄』『延喜式』祝詞の載る実在の紡織器具だ。奴理能美は「三色に変わる奇しき虫」を飼っていた。三色とは蚕から繭、蛾に三回変わることで、養蚕を意味する。また、仁徳天皇が磐之媛を追って、「筒木」まで来たとき、「うち渡す八桑枝なす来入り参来れ」(『古事記』)と、遠く見渡されるよく繁った桑の木のように、多くの供人を連れてやって来たと歌っている。『日本書紀』では河船で山代に来たら、「桑の木が流れてきた」と記す。説話の域を出ないとはいえ、状況証拠は金属説より多い。

 井村哲夫氏は、『万葉集』に「つぎねふ山背道を……蜻蛉領布(アキヅヒレ―薄くて美しい羅のヒレ)」(巻133314)と歌われたのは、多々羅周辺に養蚕。機織産業の背景があったから、と推察している(『けいはんな風土記』)。   

 これに関して10年ほど前、村田源元京大講師(植物学)は古代桑を木津川河川敷一帯で発見した。それによると、精華町菅井から山城大橋の河川敷にかけて、点々とマグワ(別名カラヤマグワ)が野生状態で生えていた。マグワは日本の山に野生しているヤマグワと違い(マグワは雌蕊の花柱が短い)、蚕の餌として古く中国から導入され、畑に栽培された。調査ではマグワが生育しているのは木津川流域だけだった。かつて大正から昭和にかけて各地で盛んに栽培されたクワはマグワでなく、ヤマグワを品種改良したもので、マグワとの雑種だろうという。マグワが自然状態で河川敷に残ったのは、河川より外では水田耕作や住宅開発で消失して河川敷に追いやられ、度々の洪水で流失しても、また種が発芽(実生)して、生き残ってきたからだとしている(『プランタ第26号』1993)。今後発掘調査が進めば、金属か機織か正否が明らかになるであろう。

【新刊紹介】
池田博士の『地名伝承学』
         吉田金彦

去る三月半ば、私たちはぶらり日本地名学研究所を訪ねた。京都地名研究会の発会を一ヵ月後に控え、所長の池田末則氏のお顔拝見に伺ったのだ。池田ビルは以前のままで、入院しておられたとは思えない、青年のようなお元気さで、地名談義に花が咲いた。奈良での地名研究者が稀になったので、これを機に奈良も加わり、頑張りましょうと、励まして下さる。ここは創設60周年の歴史がある。その記念論文集を出すため、追い込み作業で忙しそうであった。話のはずみで、私も一筆、紹介文をお書きするはめになった。

その本『地名伝承学』は、このほど五月に刊行された。まさに地名研究史上の盛事で、心よりお喜び申し上げたい。A5版、617ページ。奈良を基点にした主要古代地名がずらり、博引傍証、前人の文献をよく参照した読み応えある内容である。

氏は奈良県のお生まれである。飛鳥から始まり、説話地名、遺跡地名、律令地名などを述べ、用字・発生論に及んでいる。さすが、50年前に出された『大和地名大辞典』以来の20冊余の氏の蓄積の中から精粋を抄出された論集だけあって、今後の大和地

(右から綱本逸雄氏、池田末則氏、筆者。奈良公園にて)

名研究に役立つことは間違いない。

地名は論文に纏めにくい学問分野である。しかし池田氏は、氏独自の伝承学(論)の立場を貫いている。先学の諸説を味わい深く紹介する所に魅力がある。この本を読めば、古代地名研究の精神に触れることができる。氏は「地名は生きている古語の化石」と主張され、その持論を実践しておられ、六十年に亘る氏の学問の成熟が伺える。刊行は私財を投じての非売品だが、東京の五月書房から市販(13千円)。氏に申し出れば特別のお計らいがある由。本書は論集の第一巻で、あと続刊も期待される。弥栄を祈りたい。

【連絡先】
630-8238奈良市高天市町493
日本地名学研究所(0742223593

【会員の著作】
 4回例会の発表予定者の山嵜泰正氏には次のような著作があるそうです。参考のために、ここに紹介しておきます。
・井本伸広・山嵜泰正編著『京都府の不思議事典』(新人物往来社)
・山嵜泰正著『京・寺町通りの伝承を歩く』(ふたば書房)
     山嵜泰正著『小町の謎』(ふたば書房)
【新会員紹介】
次の方々が新たに会員となられました(敬称は略させていただきます)。
山内卓郎(左京区)、吉田五彦、丸田博之(右京区)、藤田静香(上京区)、平川博子(中京区)、岩田行展、西山秀尚(伏見区)、太田勝祐(西京区)、橘雄介(京田辺市)、田辺征夫(南山城村)、吉岡正武(加悦町)、

中西俊夫(宮津市)、尾崎聖二朗、前窪義由紀、森尻清(宇治市)、豊島新一(滋賀県・甲西町)、――以上の16名の方を加えて、現在の会員数は161名です。当初の予想を上回り、まことに喜ばしいことですが、研究会の運営の安定とさらなる発展を期し、会員の募集を続けたいと思います。興味をお持ちのお知り合いの方があれば、よろしくご勧誘ください。

【編集後記に代えて】

『都芸泥布』2号をお届けします。総会でのアンケートの際に、この「ツギネフ」という名前を書き込んで提案していただいた新井寛氏に今回はご投稿いただきました。またこの「ツギネフ」について、吉田金彦代表理事から――
 「ツギネフという耳馴れないことばですが、これは古代の山城の国を形容する枕詞です。しかし、なぜ山城の枕詞になるのか、どういう意味であるかについては、辞書にも書いてありません。万葉集には「次嶺経」と書いてあるので、奈良山を越える人が山城の国を望んで次々に嶺を経る意味だ、と見るのが一般的です。しかし、研究者によりますと、山を切り開いて継いで木の苗を植えたのだとか、そこに植えられ、生えている植物はツキ(槻)の木だとか、いや水木科のハナイカダだとかいう説明まであって、異説が多いために、辞書では慎重に語義未詳としてあります。

 会員の皆さんはどう解されますか。分っているようで分らない、そして優雅なよいムードの古代語ですね。私は全く違った考えを持っており、近く発表しますので、皆さんもご一緒に考えて見ませんか。」

 ということで、いずれ吉田先生も発表されることになると思いますが、皆さんの「ツギネフ考」もお待ちしています。

ところで、北村季吟にも『菟芸泥赴』という書物があります。『都名所図会』や『雍州府志』に類する京都の案内書ですが、書かれたのは「貞享はじめのとし」、つまり1684年のことであったようです。われわれの『都芸祢布』も回数を重ねて、季吟のものに匹敵する、また一風変わった京都の地誌、歴史書となって、後世の人々が混同するようになったら、などと想像します。そのためにも、ふるってご投稿のほどをお願いします。(梅山)


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