「都藝泥布」 第3号 京都地名研究会の通信誌の第3号 (読み「つぎねふ」は「山城」の枕詞) |
第2回例会報告
10月20日(日)、京都キャンパスプラザで「京都地名研究会」第2回例会を行った。参加者は45名、前回とほぼ同数でほっとしたものの、会の発展のために、さらに多くの方々の参加が望まれる。発表者は二人で、その概要は次のとおり。
川村平和氏「深草の『草』がつく地名考」永田良茂氏「京都を中心にした私の縄文地名解釈」
どちらもが弥生時代をさらにさかのぼって、縄文時代の言葉の層に地名の起源を探ろうとする野心にみちた試みであった。川村氏によれば、千種、神積(このくさ)、八千種、三草といった「くさ」のつく地名がほぼ山崎断層に並行する形で分布している。淡路島にも千草という地名があって、ここもまたせんだっての阪神淡路大震災において被害をこうむった野島断層の上にあった。これまで、「くさ」のつく地名は湿地、または崖地であるとかの解釈があったが、動詞の「くさる(鏈る)」とかかわり、かつて地震による激しい地殻変動のあったところなのではないか、と川村氏は述べる。この「くさ」は、アイヌ語で解くとよくわかると、吉田代表理事が補足された。永田氏の発表は多くの地名をアイヌ語で解釈しようというものであったが、地名の歴史時代における変遷を考慮せず、性急に縄文の古層へと飛躍した行き過ぎがあり、方法論上検討を要すると、厳しい批判が会場から出た。
第3回例会(12月8日 於みやづ歴史の館)
の日程、会場へのアプローチについては6ページをご参照ください。
第3回例会講演予告
@ 糸井通浩氏「地名『間人』について―『はし』という語を中心にして」
「間人」を、なぜ「たいざ」とよむのか、古来の難題のひとつ。中世の資料で「田伊佐(たいさ)」とあるが、そのもとは「たぎさ」か「たゐさ」か。「間人」は他の地名や人名では、「はしひと(はしうど)」と呼ばれている。おそらく「はしひとの間人(タイサ・地名)」と使われた枕詞であったろう。そこで、「竹野郡間人郷」辺りが古代においてどんな土地であったのかを考えてみなければならない。それにしても、「間」が「はし」と読めるのはなぜか。アクセントが異なるが、「橋」「箸」「端」これらも「はし」であり、また「「は」は「へ(辺)」「は・はた(端)」「ほ(穂など)」「はな(先、崎の意)」などとワードファミリー(単語家族)をなす。こういうことを例に考えながら、古代地名の研究にはどんな観点や配慮が必要か、などについて考えてみたい。
[糸井氏紹介―龍谷大学教授 1938年、京都市に生れ、丹後で育つ。京都大学文学部(国語国文学専攻)卒業。主な共著に『後拾遺和歌集総索引』(清文堂)、『物語の方法―語りの意味論』(世界思想社)『国語教育を学ぶ人のために』(同)等]
A杉本利一氏「かくして地名は抹殺された」
現今の社会開発は、我々の祖先が伝えてきた無形文化財的貴重な地名も、根本的に破壊しつつあります。それは、農地の大規模な「土地改良」「圃場整備」や都市の「区画整理」において、その地域全域の地名が一旦白紙にされ、工事整備後に新たな地名が付される事によるものです。こうした中で地域の区画が全面的に変更され、地名の数も大きく減少するのが普通です。ある例では、100haの耕地集団で、195あった地名が78になっています。当然ながら117の地名が抹殺された訳です。更に大切な事は、その残された地名が果たして、歴史的地名を残す配慮がなされているかどうかです。又、こうした大きな地名変更の経過を、記録保存して、後世に残しているかどうかという事です。
こうした中で、わが国の地名政策は全く遅れているといわざるを得ません。既に中国では地名委員会の審議を必要としているようだし、アメリカ、カナダ、イタリアなども地名政策を実施しているとのことです。
加悦町では昭和54年に「地名、地形及び区域の記録保存に関する条例」を制定しています。
[杉本氏紹介―大正14年生れ。加悦町文化財保護委員会会長。加悦町郷土史研究会員。丹後地方を中心に郷土史を研究。論文に「野田川舟運について」「宮津領奥平氏村々取調帳について」等]
B 糸井昭氏「『遊』地名について」
丹後半島の海岸に「遊(あそび)」という珍しい名前の集落があります。京都府竹野郡網野町掛津の枝村です。
掛津海岸は鳴り砂で有名な琴引浜や太鼓浜などの砂浜が多くを占めていますが、東部は安山岩の磯浜になっています。
本村である掛津の集落は砂浜から少し内陸の古砂丘のそばにありますが、遊の集落は磯浜が凹入した海辺に位置します。したがって、遊集落では舟の上げ下ろしが可能で磯漁が続けられています。
この「遊」地名については、先人に考察がありますが、いま一つ納得できません。
あるとき、綾部市で「遊里」地名があることに気づき、訓読みでなく音読みして「遊」の語源を考えてみました。
私は昆虫少年でしたが、「間人」小学校卒業後に「太秦」で生活したことから、地名に興味を持ち、民俗・歴史へと関心が広がりました。
[糸井氏紹介―昭和5年生れ。丹後郷土資料館友の会会長。奥丹後地方史研究会会長。丹後地方を中心に郷土史を研究。論文に「サンネモ(三右衛門)伝説について」「峯山領在方風俗の伝承について」等]
第4回例会予告
平成15年1月26日(日)午後2時〜5時
龍谷大学大宮学舎(下京区大宮七条東入ル)
@ 真下美弥子氏「京都の地名と伝説―『桟敷が岳』を中心に―」
A 山嵜泰正氏「京の上人町・木食応其」
【発表要旨】
真下美弥子氏
一千年の都である京都の地には数多の伝説が残されており、それらは地名とも密接な関わりを持っている。今回は、「桟敷が岳」と惟喬親王伝説との関わりを考察する。
「桟敷が岳」は北山の高峰で、鴨川の最長の水源が付近に発している。その地名は、文徳天皇の第一皇子でありながら、惟仁親王(後の清和天皇)との位争いに負けて小野の里に隠棲したという惟喬親王が、そこに桟敷を設け下界を見渡したことに由来するという。惟喬親王説話が木地師の間で伝承されたのは周知のことであるが、本発表では北山一帯に点在する各種の伝説や、『伊勢物語』との関わりで、惟喬親王と「桟敷が岳」との結び付きの経緯を辿ってみたい。
[真下氏紹介―東京都三鷹市に生れる。慶應義塾大学文学部(国文学専攻)を経て、立命館大学文学研究科博士課程単位習得。博士(文学)。専門は日本中世文学。現在、立命館大学文学部非常勤講師]
山嵜泰正氏
上人町は五条大橋東詰の近くにある。木食応其は高野山の「中興」といわれる。方広寺大仏殿の大仏は慶長大地震で崩れ、その跡に秀吉は「善光寺如来」を運ぶ計画をたてた。開眼法要の導師が応其である。二人の出会いは、秀吉の高野山攻めであった。秀吉の知遇を得た応其は高野山の炎上を回避し、九州遠征に従軍、島津氏との和平交渉をした。関白秀次が「謀反」の理由で高野山で切腹した時に立ちあった。
「善光寺如来」の行列が方広寺大仏殿へ到着したのは慶長3年(1598)7月18日。太閤の死の丁度一ヶ月前。秀吉は病床にあり、「善光寺如来のタタリ」の噂が広まった。開眼法要の直前、善光寺如来は信州へこっそりと帰される。8月18日、太閤が死亡、喪が秘される中、応其は一千人の僧侶と方広寺大仏殿で善光寺如来法要を行った。
応其は淀殿と秀頼から「太閤殿下の菩提を弔う為、金銅の大仏を造ってもらいたい」と依頼された。大仏殿の中に金銅の大仏を造営することは非常に困難だった。徳川家康は太閤に「豊国大明神」の神号を奉り、自ら率先して太閤の墓前に詣でたが、1600年、関ヶ原合戦の勝利後、家康は豊臣氏に圧迫を加えた。
慶長7年(1602)12月4日、方広寺大仏殿は鋳造中の大仏から出火し炎上した。木食応其は責任を取り、近江の飯道寺(はんどうじ)に籠り入寂した。享年73歳。
[山嵜氏紹介―1936年京都市生れ。説話・伝承学会会員・世界鬼学会会員。京都教育大学・京都文教大学非常勤講師。京都リビング新聞・カルチャー「歴史・説話」講師]
【地名随想】
「大きな地名 小さな地名」 糸井通浩
地名には、より広い地域を指す大きな地名とより狭い地域を指す小さな地名とがある。中には、大字、小字という区別もあり、こうしたレベルの違いやこれらのレベル間の関係についても興味が湧く。ところで、古代の地名には、出雲国出雲郡出雲(郷)といった、大きな地名「国名」と小さな地名「郷名」とが同じというものが見られる。これはおそらく、郷名の「出雲」が元になって、郡名、国名へと拡大されたものと思われる。とすれば、古代において、出雲国(今の島根県東部)は出雲郷がその土着勢力の中心地であったことを意味していることになろう。(もっとも大和国の場合、大和郡はないが、郷名に「おほやまと」あり。)
平安時代の『和名抄』によって調べてみると、国名と郡名が一致するところが伊予国伊予郡、阿波国阿波郡など14カ国存在する。さらに郷名までが一致する国が5カ国も見られる。出雲国以外では、駿河国、和泉国、土佐国、大隈国である。ところで、丹後国は、和銅6年(713)に丹波国から分国された国で、もとは丹波国に含まれていた。とすると、もとは丹波国丹波郡丹波(郷)があったことになる。丹波郡も後、中世末期ごろから「中郡」と呼ばれるようになったことから、その昔丹波国丹波郡丹波(郷)があったことがつい意識から消されてしまうが、丹後の古代を考えるとき、この事実は重要な意味をもっている。丹波郷(ほぼ今の峰山町。もと丹波村あり)が古代において土着勢力の大きな拠点であったことを意味していると考えられるからである。
「丹波」は、「旦波」「但波」とも表記された。今「タンバ」というが、「たには」の訛ったものだとすると、「田庭」の意味であったと考えられる。「谷間」だとか「谷端」などの意味とする説もあるが、「た・には」という語構成の語が、「たに・は」というリズムで漢字が宛てられることは珍しいことではなかったようだ。もっとも、隣の国の名「但馬(たじま)」も、元同じ語であったと考えるべきかもしれないことを思うと、なお考えてみるべきことかと思う。
【公募】(1)会報の名前
(2)会のロゴ・マーク
京都地名研究会では、研究発表を目的とした『会報』を年1回発行する予定です。その会報の誌名と、会のロゴ・マークを会員から公募します。それぞれ会にふさわしいものを、ふるってご応募ください。
締め切り:平成15年2月末日
(いずれも決定は事務局にて行い、一切の権利は本研究会に帰します。ロゴ・マークについては、盗用、または極似したものがあることが判明した場合、使用を中止、それを原因とするトラブルが発生しても、当会は関知しません。)応募先:京都地名研究会事務局 綱本逸雄気付
【『会報』創刊号 原稿応募要領】
1 締め切り 平成15年2月末日必着
2 応募資格 顧問 講演者 発表者、会員、本研究会が執筆依頼した者(例会発表者は旧稿推敲の上、再提出のこと)
3 内容は京都地名研究会会則の趣旨に沿ったものとする。
4 原稿 A4サイズ(40字×40行)とする。論文(6〜10枚)研究ノート(4〜6枚) 随筆(2枚)
5 完全原稿とする。応募原本1点および査読用2点を同封する。採用の如何を問わず、応募原稿類は写真・図版をも含めて一切返却しない。
6 写真・図版、手書き原稿の場合は応分の経費負担をお願いすることがある。
7 採択・掲載の有無については3月20日頃に連絡する。平成15年3月31日発行予定。
8 執筆に関する留意事項
☆執筆者以外の公け乃至は個人・団体が所有する原資料(写本・文献)・図版・文化財などを紹介または引用する場合には、文書などによって関係者の了解をとる。
☆口頭などの了解の場合には執筆者との関わり(日時等)を明らかにしておく。
☆原資料などを引用する場合には、使用した写本や校訂・解説などを明記する。
☆執筆者(個人・団体など)の所有資料・調査資料についても明記する。
☆編集委員会は、応募原稿が論文・研究ノート・随筆その他の書式として整っているか、常識的にみて公正であるかによって、判断する。
☆応募原稿を原因とする紛争一切に対して本研究会は関知しない。
9 送付先 〒603-8555 京都市北区上賀茂本山 京都産業大学845号 池田哲郎宛。なお、「京都地名」と朱書し、書留など確実な送付手段を使うこと。
【報告】
湯口誠一氏稿『洛中地名論考』
『洛中古町名総覧図』
9月16日、市内在住の湯口誠一氏の訪問あり、氏の地名研究談をうかがいました。その折、氏の長年の洛中の絵図と町名に関する研究論文を持参され、京都地名研究会で活用してほしいとの事でした。
資料は二つ。『洛中地名論考』(と呼ばせていただきますが、これ)は氏が、昭和50年から62年にかけて専門誌『月刊古地図研究』などに発表された学術論文40数編で、絵図付きの詳細なものです。また『洛中古町名総覧図』1帖は京大・京都府総合資料館その他所蔵の江戸時代各種刊本絵図を収載して、現在の京都の中心部の町名すべてを総覧できるようにまとめられたもの。大版全57葉あり、長年の丹念な作業は近世平安京の町名を知る大変な労作であり、古町名研究の貴重な文献であると思われます。
このような地味で基礎的調査研究は、埋もれることなく、広く公刊されることを期待する次第ですが、とりあえず会員に報告いたします。資料は本部(語源研究所)でお預かりしています。
なお湯口氏は京大国文学卒、長い国語教職歴のある方です。 (吉田金彦)
【出版案内】
当会員の高桑進京都女子大助教授著『京都北山 京女の森』(ナカニシヤ出版、1900円)が10月刊行された。生命環境教育を提唱する著者が左京区尾越に残る里山の多様な自然と生き物を豊富なカラー写真で紹介。この里山(二四ha)は京女所有で、著者は1990年から学生や専門家とともに環境調査を行い、本物の生命との触れ合いを実体験してきた。
大都市の身近にある日本の自然環境のすばらしさに触れ、失われつつある人間らしい感性を取り戻してほしいと平易な文章で訴える。科学の目で見た北山の森のすばらしさがわかる書。綱本逸雄当会事務局長も尾越・大見の歴史と伝承の項で執筆協力している。
【人事のお知らせ】
7月28日の常任理事会において、田上源理事を常任理事に推薦することに内定しました。正式には次期総会に上程致します。
【編集後記】
次回例会は始めて京都を離れ、丹後で行われることになります。雪の天橋立が見たい反面、行き来の足のことを思うと、やはり快晴を願わざるをえません。ともあれ、大勢ご参加のほどを(6ページをご参照ください)
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