「都藝泥布」 第4号  京都地名研究会の通信誌の第4号
  (読み「つぎねふ」は「山城」の枕詞)                    

                          

さらなる会の発展に向けて
    次年度のスケジュール決る
昨年の4月28日に「京都地名研究会」が発足して、当初予定していた年4回の例会をつつがなく終えることができた。
12月8日には丹後の宮津で、年が明けて1月26日には京都にもどって、第3回および第4回の例会を行ったが、
「冬枯れ」ということばとは無縁の盛況ぶりであった。現在は初年度の総決算である「会報」の編集作業を委員
たちは行っているが、それと並行して次年度の第2回大会および今年と同じく計4回の例会の日程がほぼ決定した。

【第2回大会】

日時2003420日(日)

場所;キャンパスプラザ京都(京都駅北・中央郵便局西)4F第3講義室

総会 1300

フオーラム「京の古代史と地名」

     13551700

司会;糸井通浩龍谷大教授

講演@;上田正昭京大名誉教授

     「平安京・京都そしてカモ」

講演A;吉田金彦姫路独協大名誉教授

     「つぎねふ山代と筒木の意味」

 フオーラム・コメント

     井上満郎京産大教授

懇親会 1800〜 タワーホテル7F

           会費5000

(なお、総会に先立って、1040からはキャンパスプラザ京都5F第3演習室で理事会を開催します。)

 2003年度例会スケジュール】

5回例会 720日(日)

14001700

      於 京都産業大学

6回例会 1019日(日)

10001600

於 京田辺市コミュニティホール(仮)

 シンポジウム:

   「秘められた山城を探る」

7回例会 1116日(日)(予定)

      14001700

      於 丹後・宮津

8回例会 125日(日)

      14001700

      於 龍谷大学

(第6回例会については、初めての南山城での例会になるとともに、京田辺市郷土史会との共催によるシンポジウムとして計画を立てている。)

【第22回 全国地名研究者大会

      −渡来文化と近江への道】期日=413日(日)・14日(月)

 第1日ピアザ淡海2F・ピアザホール
 第2日近江路古跡探訪ツアー
大会参加費:2000
詳細については下記に問合せてください
日本地名研究所
0448121106
近江渡来人倶楽部事務局
      0775262929

【第3回例会報告】

         於 みやづ歴史の館

 同じ京都府とはいっても南北に長く、分水嶺を互いに背にして、気候が違ってくる。「弁当忘れても、傘忘れるな」という諺が丹後にはあるそうだが、まさにそのとおりの空模様になった。あいにくの天気であったにもかかわらず、予想を超える40人以上の出席者があって、まずまずの盛会であった。折りしも、この地域では町村合併が議論されているさなかであって、地名という一種の文化についての関心の高さをうかがわせた。

  間人はどうして
「たいざ」なのか(糸井通弘氏)

最初に、本研究会常任理事で、この丹後地方の出身でもある糸井通弘氏が「地名『間人』について」と題して講演を行った。なぜ「間人」をタイザと読むのか、知らなければ、だれも読めないであろう。聖徳太子の母である間人皇后が物部と蘇我の争いを避けて一時期住まって退いた、つまり「退座」したからだという地名伝承は、糸井氏は取らない。もともと「田居」に形態素の「さ」がついた「たゐさ」という地名であったのが、この地域には土師氏が住んでいたために、「間人(はしひと)のたゐさ」という枕詞が生れた、そのことによる地名であると氏は考える。「飛鳥(あすか)」や「日下(くさか)」などの難読地名の成り立ちと同様である。「間」をハシと読むことについては、ハシは「端」「橋(梯)」「箸」、あるいは「はた」「ほ」「はな」などとワードファミリーをなしていると考えられるという。厳密な科学としての国語学にもとづく推論過程には傾聴すべきところが多く、模範を

(左から糸井通浩氏、杉本利一氏、糸井昭氏)
示すものであったと思われる。

 地名の保存に向けて(杉本利一氏)

加悦町文化財保護委員会会長の杉本利一

氏は「かくして地名は抹殺された」と題して報告を行った。古い地名がなくなるのは惜しみてあまるものであるものの、そうならざるをえない状況があり、それに対する真摯な取り組みについて、都会に住むものには大いに参考になるお話だった。つまり、以前は耕すのに耕運機を入れることもできない、細かく区画された田を農家は耕していた。それが「圃場整備」によって整備されることになる。杉本氏自身、以前は100枚以上の田を耕していたのだが、現在は15枚になって、仕事そのものは楽になった。農家にとって土地改良は長年の夢だったが、それとともに自分たちが親しみ、愛着を持つ小字名も失われることになったのだという。郷土の無形文化財ともいうべき地名をせめて記録保存だけはしておくべきではないかということで、加悦町では昭和54年に全国に先駆け、地名に関する条例を作って、保存を心がけるようになった。しかし、緊急避難的に作られたものであるため、まだまだ不備があり、委員会を作るなどさらなる取り組みが必要ではないかと、杉本氏は述べた。

  「遊」−ゆらぐ地形(糸井昭氏)

奥丹後地方研究会会長の糸井昭氏は「『遊』地名について」と題して報告を行った。丹後半島には「遊(あそび)」という地名がある。そこは磯浜が凹入した海辺にあり、船の上げ下ろしが可能であるために磯漁が続けられている。綾部市に「遊里」があり、「遊」はもともと音読みしたのではないかとひらめいたと、糸井氏はいう。「由良(ゆら)」「由里(ゆり)」という地名は多くあって、砂地で、風が揺り上げる、地形が「ゆらぐ」ために生れた地形なのではないか。「遊」の集落には由良姓の家が多くあるが、それもこの説の証左になろう。また稲岡姓も多いが、これも本来は砂丘を意味しているのではないかと、糸井氏はいう。長く親しまれた土地についての考察は生活実感をともなって説得力があり、大いに教えられるところがあった。

【第4回例会報告】

 126日の例会は、京都の文化財の一つであるといっていい龍谷大学の落ち着いたたたずまいの大宮キャンパスで行われた。厳しい寒さの中、50名ほどの参加者があった。

  惟喬親王への追慕(真下美弥子氏)

真下美弥子氏は「京都の地名と伝説―『桟敷が岳』を中心に―」と題して報告した。「桟敷が岳」とは雲ヶ畑の北方、鴨川の水源にある山であるが、その名称は小野に隠棲した惟喬親王がそこに座って下界を眺めたのに由るという。木地師たちが親王を自分たちの祖と仰いだのは周知のことであるが、北山一帯には他にも、親王の大般若経を納めたという高雲寺があり、親王寵愛の 

      (真下美弥子氏)

雌鳥が斃れたために祠を作ったという雌鳥社(惟喬社)がある。さらには、惟喬親王の塔があるという長福寺があり、安楽寺には廃絶した旧惟喬社の神輿が納められてい

るなど、親王ゆかりの場所が多い。惟喬親王は「御霊」として伝えられるが、京都の紫野の玄武神社の祭神もまた惟喬親王と伝えられている。文徳天皇の第一子でありながらも、藤原氏の後ろ盾をもつ惟仁親王(後の清和天皇)との位争いに敗れた惟喬親王の無念に対する人々の同情の思いがいかに親王伝説を形成していくかを、真下氏は京都の地名をたどりながら、示してくれた。

  忘れられた政僧

      木食応其(山嵜泰正氏)

山嵜泰正氏は「京の上人町・木食応其」と題して報告を行った。五条大橋東詰近くの「上人町」は木食応其(15361608)の住まった土地であることから付いた地名であるとし、現在は歴史に埋もれた感のあるものの、かつては豊臣政権のブレーンであった人物の実像と、近代的な京都の町の形成に迫った。秀吉の時代は御土居を造って京都の町を囲い、聚楽第を造り、寺院を集めるなど、京都の町が近代的な都市へと変貌した時代でもあったが、応其は秀吉の高野山攻めの際に知遇を得て、九州遠征にも

     (山嵜泰正氏)

従軍し、島津氏との和平交渉をも行ったとされる。秀吉は方広寺大仏建立を企てるが、15967月慶長の大地震があって、伏見城の天守閣が崩壊し、同時に大仏の首が落ちた。それは殺生関白秀次の死のちょうど一年後のことであったから、その「祟り」を考える心理が当然人々にはあった。秀吉はふたたび大仏を作ることをせず、1598年、善光寺如来を大名行列以上の物々しさで迎えて法要をしようとするが、秀吉自身の病状が悪化、すでに京都に到着していた善光寺如来の「祟り」であると考えて、長野に送り返した。しかし、818日、秀吉は死亡する。22日、応其は、導師として、秀吉の死亡は隠したまま、空っぽの宝塔を前に法要を行った。関ヶ原で西軍が破れ、政権の移行とともに、応其の政僧としての役割は終わる。政僧も中世的な真言僧ではなく、禅僧である金地院崇伝、あるいは還俗して儒者となった藤原惺窩へ変わっていくことになった。秀吉7回忌(1604)までは盛大に行われ、その有様が「豊国祭礼図」に描かれているが、13回忌はもう華々しくは行われない状況になっていた。しかし、上方人の「太閤びいき」がそのまま応其への敬愛となって、「上人町」という名となって残ったことになると、山嵜氏はしめくくった。
 山嵜氏は、かつての聚楽第が取り壊されて畑地になったところが堀川牛蒡の産地であり、聚楽第の建物の漆喰が土壌に溶けて、それが作用して突然変異的にできたのがあの牛蒡ではないかという新(奇?)説を出されたりもして、会場はわいた。報告の後、会場から、五条大橋東詰めからは六波羅も近く、「上人町」の由来は空也上人からも説明できるのではないかとの質問があったが、近代の京都の街づくりに力のあった応其の存在を、山嵜氏は強調した。

【地名随想】

「私の地名研究」 小泉芳孝

 私が地名に興味を持ったのは、私の郷土である京田辺市三山木の通称「山本」を調べ始めていた時だった。地元の歴史や民俗を調査する時に必ず必要になるのが「小字名」であった。これらに関しては、どの本にも書かれてなくて調査をするにしても手がかりがなく、困ってしまった。ただ地元の人たちに聞くと次々と通称名が飛び出してきて、何の意味かわからず昔から言い伝えられているという返答が帰ってきた。

 その後、「宮座と講」について民俗学的な分野から地元資料を探していたところ、『区有文書』『一老文書』『古絵図』の存在していることがわかった。しかし、これを見せていただくのに交渉したが、門外不出のため、なかなかうまくいかなかった。その理由は、「バチがあたる」「よからぬことが起こる」などで、全員の了承を得ないとだめだということであった。たまたま私の父が宮座の太夫衆にいたことからうまく話が進み、およそ一年後に『一老文書』を拝見し撮影することができた。また、『区有文書』は、しばらく駄目であったが、たまたま私と親しい人が区長になったので申し出た所、近々京田辺市が『近代史』を作るのに調査して区分けしたのがあるので、これなら良いだろうということになり、コピーすることができた。

 この『区有文書』には、沢山の図面があり、これらをじっと見ていると、現在の小字名の名前がそのまま存在しているが、よく見ると、違った名前があることに気づいた。たとえば地元の人たちが通称名で「スズ」と長年言い伝えられてきた所に漢字で「鈴」の地名が存在していたのである。この「鈴」は、私が長年探していた古代駅伝制の古山陰山陽道に設けられていた平城京から最初の駅家「山本駅」に関係する駅鈴だったからだ。この周辺には、道に関係する「道中(どうじゅう)」、馬を放牧していたと考えられる「荒馬(あらま)」などの地名が残っている。これらの地名について学者の先生方に聞くと、「小字名は新しいもので証拠にはならない」といわれるが、私は何らかの言い伝えがあって、その地名はつけられたのだと思う。周辺の遺跡調査をからめて、地名の研究を進めていけば、古代の山本駅の姿を明らかにすることができると思うのである。

【報告】

T 日本地名学研究所跡を訪ねて

去る111日、事務局長の綱本氏、顧問の池田末則氏と共に、地名研究の大先輩、伏見桃山の中野荘次氏旧宅を訪ねた。奈良葛城山麓吐田郷村で大和地名研究所が発足して満60年。それが日本地名研究所に改称されたのは京都に移った昭和29年からだという。創立10年後に出版した大和地名大辞典は、当時所員だった若き池田氏の労によるもので、発行者は大和地名研究所長中野文彦とある。ペンネームに文彦の名義を使ったのは、『大言海』著者にあやかったのであろう。平成7年、91歳の天寿を全うした文彦翁の情熱を偲んだ次第である。

 遺族の長男正文氏から交々、尊父の事伺った。有難い事に、ご蔵書一部は研究会にも頂ける模様である。文彦翁は、京都帝大国文科卒。風葉和歌集研究の草分けで、国文学に広く貢献すると共に、地名学を推進された功労者である。(吉田金彦)

U 朱7小の総合学習に参加 綱本逸雄

 綱本逸雄事務局長は、1016日朱雀第7小学校(中京区壬生東土居ノ内町)で、「西高瀬川の今と昔」と題して、4年生全員約40人(2クラス)を対象に2時間調査報告した。当会会則第35に「地域の青少年・学徒を対象に地名に関する啓蒙・セミナーを開き、教育界と連繋する」とあり、その実践である。同学区内に西高瀬川が流れ、この地域では「堀子川」と呼び、ここ数年清流を取り戻す運動を西新道商店街や市民が取り組み、行政も具体化計画をすすめている。朱7小では担任教師が今年前期の「総合的な学習時間」に「堀子川の歴史」をくみ、生徒たちは流域調査を行ってきた。世界水フォーラム行事の一環でもある。

 綱本へは堀子川の由来・歴史の調査・報告依頼が3ヶ月ほど前にあり、協力してきた。堀子川はその名のとおり、かつては堀川を水源とした支流で、平安京以来の河川を利用した運河である。過書船を取り仕切った河村与三右衛門が1863年開鑿、高瀬舟が往来した。嵐山を取水口とする西高瀬川は明治期筏流しも行われ、壬生に材木屋が集中した。その面影が今も残る。

V 中山修一記念館が開館

 幻の都といわれた長岡京、その発掘の父、故中山修一氏の「長岡京市立中山修一記念館」がこのほど長岡京市久貝3丁目3−3でオープンした。長岡京は半世紀前までは遺跡も未発見で、“仮の都”というのが定説で、実在すら疑われていた都だった。しかし中山氏は、「大極殿」「荒内(荒れ内裏か新内裏)」「馬立(馬寮)」「鞠場」など向日市に残る小字地名を手がかりに発掘調査を行い、次々に都の存在を証明したことで知られている。記念館は同氏の発掘調査資料をはじめ、遺品、長岡京解説パネルなどを展示、蔵書多数を収蔵している。同氏は乙訓の地名には造詣が深く、諸論文が残っている。当研究会の会員である中尾秀正氏(長岡京市教育委員会)は、この記念館設立に携わった。(同館・пF0759577176

【新刊紹介】

☆石田天佑著『イザナミの言語学』(平成151月 ギルガメッシュ出版局刊 5000円 A5444ページ)

平成511月から平成134月までの執筆100篇。著者の目に触れた人名・神名・地名・物名などについて体験的に記録した語源随筆集である。随所に鋭い言語学的考察が光っていて面白い。わかりやすく有益である。(K

☆小泉芳孝著『稲作民族の源流―日本・インドネシア』(平成132月 文理閣刊 5000円 A5版 343ページ)

日本・韓国の神社やオハケ神事、稲作儀礼、京都・奈良・滋賀の各地方における古代神饌、南山城の宮座、山本駅と竹取物語、南方インドネシア、バリ島における儀礼など神話伝説や諸種儀礼について詳細に調査した民俗学的好著である。

【編集後記】

 128日の例会のあと、宮津に一泊。蟹料理を堪能した後、翌9日には伊根の舟屋を見て、さらに丹後半島をぐるっと回って、間人へと行ってきました。10日には本格的な冬の到来。京都にいて、丹後半島はかなりの積雪を見て、道路網が麻痺しているというニュースをラジオで聞きました。一日違いでした。

京都地名研究会も一年の活動を終え、二年目を迎えます。「きずつない」ということばは古語だとばかり思っていましたが、最近、京都では今でも実際に使っている言葉なのだと知りました。この会の会計担当の角さんが使われます。そこで、「ごっつう、きずつないんやけど」、振込用紙を同封しますので、2年目の会費をどうぞお振込みくださるようにお願いします。

会員募集!!

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