博物学を学ぶ会・地名は歴史の鏡。 | |||||||||
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"かぐや姫の里”京田辺竹取翁 博物館 2012年2月オープン!! (京阪奈学研都市町づくり・交流会) aketori okina Museum 弥呼の邪馬台国 小泉芳孝(竹取翁博物館 館長)
■何故に「邪馬台国が徳之島」なのか知りたい方は、 ■何故に弘法大師(空海)は、「竹取物語」を書いたのか、 1.竹取物語の作者、弘法大師・空海は、何を物語で伝えたかったのか。 その謎を知りたい方は、竹取翁博物館へお越し下さい。 邪馬台国論争の謎!
その原因は、日本の歴史書である『日本書紀』と『古事記』などの史書に神武天皇以前の歴史を神話として記されたことであった。
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「邪馬台国」徳之島の航空写真 卑弥呼の邪馬台国 1.徳之島説の根拠 2.徐福の蓬莱山は徳之島 3.徳之島は有力説に 4.邪馬台国「徳之島説」展 その他HP 運用 ■稲作民俗の源流 ■『竹取物語』 ■世界遺産 ■スカイハイツ三山木 ■海の世界 ■小泉ファミリー ■世界見聞録 紀元前230年頃「徐福」は、蓬莱山の不老長寿 |
日本の歴史が、いま解き明かされる。 常に古い歴史現象は、新しい発見により書き変えられていく…。それが歴史学の運命である。科学つまり真実に近づくのである。
江戸時代から続く邪馬台国論争も、その一つである。新井白石と大和説を主張した判信友から現代まで6000人余りの論者によって論争が未だに繰り返されている。その中には作家と言われる方達の大変面白い説も見られる。 前置きはこの程度にして、 その確かな手応えは、下の『竹取物語現代考』を深く読んで頂くことによって判明します。 この本『竹取物語
現代考』は、竹取物語博物館のみでしか販売していません。 |
女王卑弥呼 「徐福」が来た徳之島は、約400年後に邪馬台国の卑弥呼が誕生した。 卑弥 |
日本の歴史を解き明かす 歴史は科学である 中国の史書『魏志倭人伝』に記された内容が、本当に信用出来ないものだろうか。 そこから浮かんでくる歴史は何だったのか。物語には記紀に記されなかった政権を取ることの出来なかった人達の歴史が記されているといわれている。けっして「お伽噺」では無いのであり、古代のアジアと日本の歴史が網羅されているのである。 竹取翁博物館の小泉館長は、これら徳之島の歴史事実を読み解き、さらに世界数十カ国の民俗の歴史を数十年間に渡って調査し「邪馬台国は何処か」を捜し続けてきたのである。 |
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吉田金彦宅で「徐福と邪馬台国、徳之島説」を話し、先生も同意!!
2013年2月24日 姉の納骨で久し振りに京都市内に出かけたので、何時もお世話になっている京都市中京区の吉田金彦先生 (京都地名研究会代表) 宅に伺った。そして、先生に竹取物語を調べていて不老不死の薬から判明した「秦の始皇帝が徐福に命じて蓬莱山へ行った所が徳之島」であるという新説を述べて、その「400年後に卑弥呼の邪馬台国が誕生した」こと、また「帝のガド族説」等を詳しくお話しさせて頂いた。吉田先生は、帰り際に「貴方の説に同意します」という言葉を頂いた。 実は、私が竹取物語を20年余りにも渡って続けられて来たのも吉田先生の「それを述べられるのは貴方しかいないので続けて欲しい…」という強いご指示があったからであり、「竹取物語の舞台が京田辺市である」ということが認められた経過がある。 今回は、この「邪馬台国に終止符!!」という記念すべき宣言の記録として先生の図書室等で記念撮影をして、姉の納骨式に向かった。 写真後方の図書室入口の入った所に邪馬台国に関した本が沢山あった。 これは、吉田先生が長年にわたって邪馬台国に相当感心を持っておられたことを伺える証拠でもある。 |
玄関入口には「日本語語源研究所」の古い看板がある。 いやー、もうこの図書の多さを見ただけで先生の研究のあとが判る。 吉田先生の自宅図書室。 この他にも先生の専門書が、 2階にぎっしりある。 |
■2012年7月1日から「竹取翁博物館」で「邪馬台国論争に終止符!?」展を開催しています。 | |
竹取翁博物館 場所:〒610-0313京都府京田辺市三山木直田10 代表者小泉芳孝 JR片町線「JR三山木駅」東へ徒歩3分 近鉄京都線「三山木駅」東へ徒歩2分 TEL・FAX 0774-62-2522 携帯 090-6961-9391 HP http://taketori.koiyk.com/ Mail koiy@leto.eonet.ne.jp ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。yk 更新2013年3月1日 copyright(C) 1999 Yoshitaka Koizumi. Corporation Japan. All Rights Reserved. |