博物学を学ぶ会・地名は歴史の鏡



  
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  邪馬台国   
   徐福 ・竹取翁 戦争と平和 ・地名 ・竹取物語 稲作民俗  
 
"かぐや姫の里京田辺竹取翁 博物館
2012年2月オープン!!
 
(京阪奈学研都市町づくり・交流会)    
               aketori okina Museum  

弥呼の邪馬台国  小泉芳孝(竹取翁博物館 館長)  

   邪馬台国論争に終止符!!
    ー邪馬台国は徳之島だったー

■何故に「邪馬台国が徳之島」なのか知りたい方は、
                   博物館へおいで下さい。
 
     一言では、説明出来ません。
       時間は、1時間以上かかりますので御了解の程。

        .邪馬台国論争に終止符!? 徳之島は邪馬台国だった!?
   
       現在「邪馬台国が徳之島」説の特別展を開催中!!!

■何故に弘法大師(空海)は、「竹取物語」を書いたのか、
   物語に秘められた謎が今明かされた!!
 
      現在「空海説」の特別展も同時開催中!!!

1.竹取物語の作者、弘法大師・空海は、何を物語で伝えたかったのか。
  2.かぐや姫が月の世界で犯した「罪」とは、何だったのか? 

    その謎を知りたい方は、竹取翁博物館へお越し下さい。

 今までの邪馬台国論争は、何だったのか?
    過去6000人余りの研究者論争に終止符が打たれるのか近い!! 
      その真実とは何か?
         その謎が遂に証明されようとしている。

邪馬台国論争の謎! 
 
それの最初は、江戸時代に新井白石と大和説を主張した判信友であった。
しかし、これら論争の中で示された研究の中に古くから強引な資料解釈をなされために、それらがそのまま現在に続いていると言えよう。
これらを性格に伝えないマスコミの責任でもある。

その原因は、日本の歴史書である『日本書紀』と『古事記』などの史書に神武天皇以前の歴史を神話として記されたことであった。
 その謎解きは『竹取物語』を深く読むことによって明らかにされよう。
物語は、政権を取っていない人達によって隠された真実の歴史が物語に記されているからである。 
     竹取翁博物館 館長(博物館学芸員) 小泉芳孝 2012.7.16記す





「邪馬台国」徳之島の航空写真

卑弥呼の邪馬台国
1.徳之島説の根拠
2.徐福の蓬莱山は徳之島
3.徳之島は有力説に
4.邪馬台国「徳之島説」展

その他HP 運用
■稲作民俗の源流
■『竹取物語』
■世界遺産
■スカイハイツ三山木

■海の世界
小泉ファミリー

世界見聞録



紀元前230年頃「徐福」は、蓬莱山の不老長寿
 

日本の歴史が、いま解き明かされる。
             歴史は科学である!
!

常に古い歴史現象は、新しい発見により書き変えられていく…。それが歴史学の運命である。科学つまり真実に近づくのである。
 しかし、日本の現実は、そうではない。既に死に絶えてしまったのである!!

  江戸時代から続く邪馬台国論争も、その一つである。新井白石と大和説を主張した判信友から現代まで6000人余りの論者によって論争が未だに繰り返されている。その中には作家と言われる方達の大変面白い説も見られる。
 これ程までに新聞や雑誌それに学術書などで繰り返し繰り返し記される物(テーマ)は、無いと言っても良い。それだけに国民の関心も高く、邪馬台国論争を知らない人はいないと言えよう。
 その責任は、国民の代表と豪語している
マスコミにある。それだけに広告とならない記事に!? 当てはまらない異種の論述には、耳を貸さない人達が大変多いのである。.それは、マスコミが記者室から配られてくる記事のみが新聞報道と思っているからである。

 前置きはこの程度にして、
      何故に邪馬台国は徳之島なのか、概略から説明したい。

 私は、実は数年前に2週間かけて地名・語源学専門の友人と一緒に九州各地の「邪馬台国」と言われている場所を全て尋ね歩いたことがある。
 しかし、現地で取材してみると色々な学者が言っているだけで「何処か知らない? 」という。そして、現地の方に案内して頂いたところは、徐福伝説地であり邪馬台国の中の30カ国、又は100余カ国の一部と考えられるのみであった。それらを検討した結果『魏志倭人伝』に記された内容と殆ど一致しないことが判明したのである。

 大和説に至っても「鏡」とか、「古墳」を例にして邪馬台国論争を続けておられる。
『魏志倭人伝』に記された内容は、書いた著者である西晋陳寿が自ら現地を見ずに人から聞いただけなので「間違いが多い」などという判断で論が展開している。
 また、卑弥呼の邪馬台国は、九州から南を示しているのを誰しもが認めているのに、それより南には「歴史が無い」と言うことで無視し続けられてきた。
つまり、日本の歴史教育が偏向しているからである。

 『魏志倭人伝』に明確に記されているように九州より南に邪馬台国があったのであるから、振り向いても良いものであるが、全て無視されている。日本の学会は、教科書に載っていない歴史は無いとしているからである。

  弥生時代の『魏志倭人伝』に記されている中国の史書を色々と読み進んでいくと、秦の始皇帝が、徐福に命じて蓬莱山にある不老不死の薬を取りに行き「何処にたどり着いたのか」という事が重要なのである。
 一般に九州の佐賀や近畿の新宮・伊根、静岡の富士市など全国に数十ヶ所の何処かだとされている。しかし、一番中国から近くにある、徳之島や沖縄などが抜けているのである。


  中国大陸から古代の弥生人が、どの様なルートで航海していたのかを調べてみました。すると中国で貨幣として使われていた子安貝(宝貝)が徳之島付近で大量に採取出来ることが判明したのである。これら子安貝との日本と中国との交流が判明したのです。

 その確かな手応えは、下の『竹取物語現代考』を深く読んで頂くことによって判明します。
 
小泉芳孝著 大筒木出版  2012年2月発行。

 この本『竹取物語 現代考』は、竹取物語博物館のみでしか販売していません。
竹取翁博物館の小泉芳孝館長(博物館学芸員)が、数十年に渡り世界数十ヶ所の民俗調査に出向いて収集した資料等に基づき解明した成果が本にされたのである。

 

  
      女王卑弥呼

「徐福」が来た徳之島は、約400年後に邪馬台国の卑弥呼が誕生した。


卑弥
 

日本の歴史を解き明かす 歴史は科学である

中国の史書『魏志倭人伝』に記された内容が、本当に信用出来ないものだろうか。

 古代中国語の漢文で書かれた一字一字には、意味を持っている。その一字一字を論述したのか大変疑問である。

 私は、これらをせずに無視され現在まで論争が繰り返されてきたと感じる。秘められた弥生時代の歴史認識がお隣の中国大陸の歴史とどの様に繋がってきたのかを解き明かさない限り、今後も同じように無駄な論争が繰り返されるであろう。

 幸い竹取物語という中国や天竺、さらにシルクロードを通じて中東やヨーロッパ、さらに海のシルクロードを通じてもたらされた文化の伝搬があり、それらを取り入れて日本の邪馬台国倭人伝が記された。

 竹取物語は、SF調に面白可笑しく展開されている。しかし、その裏に隠されている藤原時代の批判、古代の日本とアジア大陸との関係を、これ程までに書き記した書物が今だかつて日本にあっただろうか。

 そこから浮かんでくる歴史は何だったのか。物語には記紀に記されなかった政権を取ることの出来なかった人達の歴史が記されているといわれている。けっして「お伽噺」では無いのであり、古代のアジアと日本の歴史が網羅されているのである。
 
 徳之島は、過去に琉球や薩摩に征服されて殆どが破戒されてしまっているが、現地調査に行くと誰も気づかなかった邪馬台国説の歴史事実が残存していたのである。

 竹取翁博物館の小泉館長は、これら徳之島の歴史事実を読み解き、さらに世界数十カ国の民俗の歴史を数十年間に渡って調査し「邪馬台国は何処か」を捜し続けてきたのである。

 徐福が最初に徳之島に来て、その400年後に「徳之島が邪馬台国となった」としても決して可笑しくないのである。しかし、琉球地方又は南西諸島の研究がなされていない未知数の歴史事実を証明しようとすれば、考古学・文献学・民俗学・歴史地理学などあらゆる分野の調査研究が無ければ事実を事実と決定ずけられない現実がある。

  しかし、『竹取物語』の舞台を20年かけて発見した館長が、2つめに解き明かす邪馬台国の徳之島説がインターネットを通じて今スタートしたのである。

 その証拠が解明され確定的となるのには、今後20年~30年の年月が必要となろう。それまで生き続けることは多分不可能かも…?

現在、徳之島にある不老不死の不老長寿薬を購入して飲みつつあり、白毛が黒色に変化(私と博物館の研究員も同様の成果)しつつある。もし可能なら30年後の95歳まで生き続ける事が出来れば、多分その解明も可能であろう。 

 一日でも早く解明する為には、多くの人達が竹取翁博物館へお越し頂して、ご一緒に研究することによって結果が早まるものと見ています。
 これらに感心がある皆さんのご協力と応援により、近い将来解明されるものと確信しています。。

 
 吉田金彦宅で「徐福と邪馬台国、徳之島説」を話し、先生も同意!!
                               2013年2月24日

 姉の納骨で久し振りに京都市内に出かけたので、何時もお世話になっている京都市中京区の吉田金彦先生 (京都地名研究会代表) 宅に伺った。そして、先生に竹取物語を調べていて不老不死の薬から判明した「秦の始皇帝が徐福に命じて蓬莱山へ行った所が徳之島」であるという新説を述べて、その「400年後に卑弥呼の邪馬台国が誕生した」こと、また「帝のガド族説」等を詳しくお話しさせて頂いた。吉田先生は、帰り際に「貴方の説に同意します」という言葉を頂いた。 


 実は、私が竹取物語を20年余りにも渡って続けられて来たのも吉田先生の「それを述べられるのは貴方しかいないので続けて欲しい…」という強いご指示があったからであり、「竹取物語の舞台が京田辺市である」ということが認められた経過がある。
 今回は、この「邪馬台国に終止符!!」という記念すべき宣言の記録として先生の図書室等で記念撮影をして、姉の納骨式に向かった。


写真後方の図書室入口の入った所に邪馬台国に関した本が沢山あった。
これは、吉田先生が長年にわたって邪馬台国に相当感心を持っておられたことを伺える証拠でもある。

 
玄関入口には「日本語語源研究所」の古い看板がある。



いやー、もうこの図書の多さを見ただけで先生の研究のあとが判る。

吉田先生の自宅図書室。
この他にも先生の専門書が、
2階にぎっしりある。


■2012年7月1日から「竹取翁博物館」で「邪馬台国論争に終止符!?」展を開催しています。 
 
竹取翁博物館
   場所:〒610-0313京都府京田辺市三山木直田10 代表者小泉芳孝
   JR片町線「JR三山木駅」東へ徒歩3分  近鉄京都線「三山木駅」東へ徒歩2分
   
TEL・FAX 0774-62-2522 携帯 090-6961-9391
   HP http://taketori.koiyk.com/
  Mail koiy@leto.eonet.ne.jp 
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